吉野作造ものがたり



吉野作造ものがたり

平成15年度 博物館学芸員実習生
               福田 千夏
1878(明治11)年1月29日、吉野作造は現在の宮城県古川市に生まれました。

作造の家は綿問屋をしていて、お父さんは古川町長をつとめ、地域の政治に熱心で、また教育にも熱心で作造に一生懸命勉強させました。
作造は特に作文を書くのが得意で英語の塾に通っていました。

作造はたいへん頭が良く古川尋常小学校を卒業すると古川初の宮城県尋常中学校(今の仙台一高)に入学しました。
その後、中学校を首席で卒業すると第二高等学校(今の北大教養部)に入学しました。当時の仙台はキリスト教が盛んで作造も20歳の時、洗礼をうけ、入信しました。

このことが、その後の作造の思想に重要な意味をもつことになったのである。そして22歳のとき仙台女子師範学校の阿部たまのさんと結婚しました。
同じ年、作造は東京帝国大学法科大学政治学科に入学し、政治学について学びました。なかでも小野塚喜平次の講義は作造に新鮮な驚きをあたえ「民本主義」の主張の基礎をつくったともいえます。

大学院生になると、教授のすすめにより中国に渡り後の中華民国の大統領となった袁世凱の息子の家庭教師になりました。
3年後、日本にもどった作造は
東京帝国大学法学部の助教授になりました。このとき、政治を勉強するためにヨーロッパにわたりました。

ヨーロッパは労働者のデモ行進や民衆運動を間近に視察して日本の政治のあり方を考えました。
第一次世界大戦がおこると、人々は命や生活が犠牲になったりしました。その状況の中で、作造は政治の目的は国民の利益を実現させること、政治は最終的な監督は国民が行わなければならないという「民本主義」という考え方を主張しました。
これは、現代日本の「民主主義」のもとになた考え方です。しかし、あくまでも当時は天皇に主権があったので、その中で民衆が政治に参加し政治の中心となる道を開こうとしたのです。
作造は当時の日本では、まだ確立していなかった政党内閣制と普通選挙制を主張しました。
作造のこうした考えは若者を中心に広がっていき、さまざまな会が結成され、自分達で日本の国を変えていこうという動きがさかんになりました。
しかし作造は夢中ばて病に倒れ55歳の生涯をとじました。作造の思い描いた社会が実現するのは、日本が戦争に負けた後のことになりました。

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