大正デモクラシーの旗手、吉野作造ゆかりの品の展示。遠足や社会科見学、講演会会場、展示館貸出も受付。-吉野作造記念館 宮城県大崎市古川

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大正デモクラシーの旗手民主主義の父吉野作造の、吉野作造記念館が発行している「吉野作造記念館だより」のべっくナンバーをご紹介します。
 
吉野作造記念館 第2号 もくじ
1.吉野作造上京後の転居ものがたり
2.吉野作造博士と祖父順蔵
3.こんな活用方法あります
吉野作造が「民本主義」を唱えてから八〇年がたちました。発表した当時大きな注目と批判をあびた「民本主義」は、いままた見直されつつあります。「民本主義」は「民主主義」を日本にもたらすための方便だけではありません。たしかに天皇が主権だった当時、政治は国民がおこなうという考え方は危険思想となりました。そこで政治の主体を変えずに、政治の目的を国民のためとする「民本主義」を主張したことは、ある意味において民主主義を実質的に確立させるための戦略でした。
 しかし、吉野の「民本主義」の源流をたどってみると、そこには東北出身ゆえの明治政府への批判意識やクリスチャンとして個々人を大切にするという考え方があります。またそれは学生時代の親友たちの考え方と共通していました。
このように、「民本主義」は一時的な戦略を越えて、吉野の生活や人生を集約したものでありました。
そして、人間の誰もが神の子となる素質をもち、無限に向上する可能性を秘めていると考え、激動の時代にあって弾圧にあいながら人間への信頼をもち続け行動した勇気は、現代の私たちに、何が大切かを改めて教えてくれます
1,吉野作造上京後の転居ものがたり     横山寛勝
 吉野作造が、明治三十三年九月東京帝国大学法科大学政治学科に入学するために上京してから後、いつ頃どの辺に住んでいたのかその詳細について、なかなかつかめなかった。当館が、昨年七月から始めた第一回・第二回の企画展に必要な資料を収集する中で、副次的に発見した吉野の「住所」の変遷を、以下時間をおってたどってみたい。
 
1本郷区台町
大学に入学するために上京した吉野は、すでにそこの住人になっていた内ケ崎作三郎・栗原基らに続いて、小山東助と一緒に、本郷台町の中央学生基督教青年会館に入った。
 
2本郷区金助町
翌三十四年三月(二十四歳)たまの夫人と、昨年生まれたばかりの長女信を呼び寄せて、本郷区金助町に移り住み、半年ぶりに親子水入らずの生活を楽しんでいる。
 
3本郷区駒込千駄木林町
明治三十八年十一月一日(二十八歳)の時点で、吉野家族は、本郷区駒込干駄木林町二一〇番地に住んでいる。このことは、『国家学会雑誌』二二五号のお知らせ欄の次の記事で明らかである。「玉稿ノ寄贈其ノ他編輯ニ関スル用向ハ左記ノ中ヘ」と記し、美濃部達吉と吉野の住所氏名をそれぞれ並べている。また、「新人」(本郷教会機関誌)明治三十八年九月号の「編集局だより」の記録の中に、「明治三十八年八月二〇日本郷千駄木林町の吉野氏宅に於て組会あり、集会者二〇余名。」とあることによっても証明されるであろう。さらに、この「林町二一〇」の重要な証拠がもう一つある。吉野は明治四十三年四月十五日、政治学・政治史研究のため三年間の欧米留学に出発。新人同人は彼の蒲柳の質と懐郷痢を気遣いながらも、「君行け。神の光に導かれつつ」と壮行した。ハイデルベルグの人となった吉野は、同九月二五日、千駄木林町二一〇のたまの夫人宛に「目下起きて長い手紙を書き得る状態に在らず、但し心配に及ばず」と、ハガキを出している。
 
4本郷区東片町
 四年後、大正二年十一月発行の『新人』広告欄に、吉野は次の住所へ転居広告を出している。本郷区東片(三十六歳)町一四四番地この時、長女信が十二歳、次女明が十歳、三女光子が七歳になっているので、娘達の通学距離に配慮したためではないかと推察できる。吉野夫妻は、子ども達を誠之小学校に入れている。この小学校は西片町にあり、吉野の住まいのある東片町からは指呼の間にある。
 
5本郷区千駄木町
 太田雅夫氏作成の吉野年譜の大正三年七月の記録に「この頃本郷区千駄木町の自宅周辺に、東大学生基督教青年会のメンバーが下宿し、吉野学校の観を呈す」とある。この記事と『六合雑誌』(キリスト教青年団体・東京青年会発行の綜合雑誌)大正八年一月一日付の新年挨拶「謹賀新年」の記名欄に、吉野は住所氏名を連ねている。それが左記住所でここ五・六年住む。本郷区千駄木町五一千駄木町五四番地が、東大学生基督教青年会・同主事藤田逸男氏の居所である。
 
8本郷区駒込神明町
 さて、大正八年十日の日記から、二つ拾って次に示そう。「一〇月一五日水曜夕方まで学士会に居る中村君湯沢君来り家の事談判し結局六千円にて買ふ事にし金曜日書類取り換はす事にきめる。一〇月一七日金曜朝学士会に赴き中村湯沢二氏と落ち合ひ家屋売買の書類を交換す」。この「六千円也」の家が太田氏作成年譜にある「この年(大正九年)、駒込神明町に自宅を新築する。」(注1)と同じものか。この年吉野は四十三歳になっている。ところで、たまたま、神明町の吉野の新邸の向かいに住ん(神明町三二八番地)でいた、秋田出身の鷲尾よし子氏が、大正十年春頃の吉野邸の様子を、詳しく観察し文章にしているので次に紹介する。(注2)「吉野作造博士邸は南向きで横丁から北向きの大通りまで、坂上から坂下まで至る広大なお屋敷。表玄関は南横の坂上にあるが、ここはいつも〆切になつていた。大通りと西側に通用門があり、そこから報道関係や家族の出入りがあって、わが家の向い側は木の高い塀と深い植込になっていて、二階から、令嬢達の華やかな笑い声や、時々クラッシックの音楽が聞こえて来たりするだけで、一度も住んでいる方々をお見かけしたことはなかった。近所とのおつき合いもないらしく、この城の中は、今を時めく新思想のそよ風が流れて、その生活のブルジョア的華やかさに吾々は目をみはった。」かくも、住む所と生きる目的は、密接不可分なのである。
 
(注1)大正十一年二月二十四目付の日記帳に、吉野は「政府が気にする不穏宣伝文書」の一例として、赤像社から吉注1)野に発信された一枚のハガキを貼りつけている。その表書き住所が「神明町三二七」となっている。
(注2)『明治から昭和まで』
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2,吉野作造博士と祖父順蔵     櫻井滋郎
 (1)

祖父順蔵は、大正デモクラシーの旗手吉野作造を古川尋常小学校で教えたことがあると常々話していたという。
 古川市は吉野作造の一一八回の誕生日に当る平成七年一月二十九日「吉野作造記念館」を古川市福沼に開館した。某日、記念館を訪ね、順蔵が古川小学校で教員をしていたことがあるのかについて調査を依頼した。
 吉野博土が小学校二年生に編入学したのは明治十七年三月である。その当時の教員記録は校長名のみの記載であるという。従って在職職員名は不明であると。
 近日、母が使っていた古い箪笥の底から、家業の蚕蟻の卵を生み付けさせるために使う厚紙を表紙にした「櫻井順蔵履歴書」と表書きした十頁ほどの書類が出てきた。その冒頭に「明治十七年二月十日、志田郡古川小学校授業助手を拝命。志・玉造郡役所」とあり、次に「同十九年十月一日、依願免職」。更に「明治二十二年以降現今ニ至ルモ蚕種製造業ニ従事ス」と記載されている。そして履歴の最後の行に行くに従って字は乱れ「昭和六年十二月十三目から十六日まで東京に出張」と記入し書き終えている。
 その間、蚕種業の勉強のため長野県上田高等蚕糸学校(明治三十九年四月七日から十三日)や東京高等学校(同年四月二十三日から二十七日)にて消毒法の研修を受けたこと。大崎地域や宮城県の農業及び養蚕代表として全国各地へ出張した事項を詳述している。順蔵は、昭和八年十月一日に死去しているので前述の昭和六年十二月の東京出張は公職とて、最後の活動であったのであろう。
  この記述から明治十七年,二十歳になっていた順藏がどんな傳で古川尋常小学校の授業助手になったかは不明であるが。吉野博士が小学校へ入学する直前の二月には授業助手として勤務していたことは間違いないと考えられる。しかし、直接吉野博士を教えたかどうかは別にして二年八ケ月同じ学校に居たことになる。
 吉野博士は、「小学校の思い出」の文章の中で当時の学校のことを次のように記している。

「私は明治十七年に小學校に這入った。郷里は仙台市を去る北の方十一里、田舎の小都会ではあるが国道筋に当る比較的繁華な宿場で、所謂寒村僻邑ではない。それでもこの頃は字を讀める者が案外少かったと見えて私の記憶では、学校は立ったが先生のなり手がないといふのであったろう。人並に手紙でも書けさうなものはみな臨時に教鞭を取るべく狩り出されたもののやうに思ふ。私の借家に長屋住ひしてゐる駄菓子屋のおやぢ、場末で刻み煙草を製造して居る老職工など半日は学校の先生で半日は眞黒になって働いて居たのを覺えている。・・中略・・私は二年生に編入されたが、其頃から段々正式の教員を他郷から迎へ、初めて羽織袴で出勤することになったやうだ。・・・後略」
 戊辰の役の時、順藏は満四歳であり、郷学有備館は六歳になってからの入学の定めであることから、おそらく寺小屋で手習いを受けたものであろう。それは明治政府が小学校令を公布したのは明治五年であり、岩出山本郷小学校が開校したのは明治六年である。更に当時は小学校四年制であり、開校当時順蔵は十歳になっていたことから推察される。
 明治維新により俸禄を失った武士の家にとっては苦しい生活であり、順蔵も働きながらの勉学だった様だ。その一例として明治十二年頃、鳴子温泉で働いていた事実がある。それは明治十二年六月六日付きにて、宮城県から「其方儀本月二日、鳴子村平民佐々木辰治二女美どり弟磯吉・・・中略・・・激流へ顛落シ溺死セントスルノ際直チニ川中ヘ飛込救援候段殊勝之至依賞金壱円下賜候事」との賞状が残っている。順蔵の父弥市は玉造郡大口村(現鳴子町)の出身であり、その縁で温泉町に出かけ働きながら勉強していたものであろう。その実績が郡役所に認められ古川小学校授業助手を命ぜられたものであろう。平成八年六月始め岩波書店から吉野作造選集第十四巻が刊行された。いち早く入手された吉野作造記念館研究員の田沢晴子氏から、選集の二七六頁に次の様な記述があり、櫻井順蔵氏は間違いなく吉野博士が古川小学校時代の先生であるとの連絡を受けた。即ち、大正十一年十月六日金曜の日記に
「・・・五日は朝のうち内で本を読む、やがて学校に行き明六雑誌やらもしほ草の整理をやる。午後岩出山の人櫻井順蔵氏来訪、弐拾何年振り也、明治十八九年頃の小學生時代の先生也、今は蚕糸業の傍玉造郡史を編纂しつゝありとか。・・・後略」
 これで順蔵が吉野博土の小学校時代の教師であったことは証明された。しかし、吉野博士が思い出の中で書いている様な適当な先生だったかどうかは解らない。また文中にある玉造郡史を編纂しつゝありとの記述については、昭和四年発行の玉造郡誌の緒言の中で、「大正十三年七月廿二日櫻井順蔵君に郡誌の編纂を嘱託せり、仍りて君は八月十五日より翌十四年一月二日に亙り、玉造軍団乃至合戦原調査して罷む」と玉造郡教員会長須藤規氏は書いている。更に、東京で発行された雑誌「宮城県人」昭和三年発行通巻三九号に「玉造郡誌編纂委員調査日誌」として掲載した論文の冒頭に
「・・・不才浅学にして能く斯る任務を完ふするを堪えざるものあり然れども晝夜兼行熱心事に当り実地に就き見聞し更に郡内諸彦の御援助を仰ぎ材料蒐集等に力盡さば或は職責の萬一を果すを得んか・・」
と書き、後日の参考にと日記様式にて記述し現地の感想を和歌に託して挿入している。
 従って、吉野博士を訪問した頃は、正式に教育会からの委嘱は受けておらず、明治四十四年自費出版した「岩出山大観」の続編として、玉造郡全体のことを纏めたいという意欲があり、そのことを博士に話したのではないだろうか。その後郡教育会から実績を認められ正式に委嘱を受ける。しかし、結果的には前述の調査日記の内容部分を受持って記述し、この作業は終えた。今、私の手元にこの時書いた郡全体の素稿約六十枚が残っている。
 順蔵は晩年、若き日の追憶として朝暗い間に握り飯を背中に負い、三里(十二キロ)の道を歩いて古川小学校まで通った。そして、雨や雪の日は袴をたたみ、握り飯と一緒に背に負い着物のすそを尻からげにして通ったものだと語ったという。
(2)
 順蔵は蚕種業の傍ら前述の如く、郷土の故事来歴を調べ、古蹟から古瓦や陶片を集めるなど一応郷土史家として活動していた。その資料収集の習性は古文書から身近の人々の書翰に及んでいる。吉野博士関連の手紙も何通かが残っている。これらの手紙は、博士本人に会って戴いたものか或いは博士の知人を通じて手に入れたものか分からない。吉野博士の二高の後輩であり、岩山山出身の宮本貞三郎氏(元青森県知事・晩年は岩出山町長)の縁を利用したことも考えられる。宮本氏は吉野作造が旧制二高時代主催していた、仙台市北四番丁の自炊寮で同勢八人で生活していた吉野博士の友人である。その時代の状況を「真山青果・青年時代の吉野君」の中で次の様に語っている。
 「・・・唯数人の同志相集って共同生活をするという表面の建前であったが、内実は吉野博土を中心として其精神的感化を受けようとする人々の集合であった。・・・唯博士の図抜けて優秀なる頭脳と、友情に厚く上下の信望を一身に集めて所謂稀れにみる模範生徒であったという事は、期せずして他郡の者を糾合し、自炊生活を形成せしめたのである。こんなわけで予は中学の一二年を博士と同居していた。」
また、当時の博士の風貌を「身長八尺四五寸位細身のスラリとした顔の少し蒼黒いギヨロリとした眼で風采のあまり揚がった方ではなかった」と書いている。宮本氏は東京帝大でも博士の後輩であり心の先輩として終生親しくしていた様だ。その事はむ吉野博士の日記の中に宮本氏との交流の様子が数多く出ていることでも分る。順蔵が持っていた手紙類は、いずれも明治三七・八年頃の東京大学法学部の諸先生方のものである。即ち穂積陳重。金井延。奥田義人。木場貞長氏と吉野博士のものである。吉野博士は明治三十八年穂積陳重教授の法理学演習に参加。三十七年七月政治学科を首席で大学院に入っている。更に十二月には東京帝大工科大学非常勤講師になった時に雑誌「新人」に執筆を始め、「国家学会雑誌」の編集にたずさわり河上肇を知る。この頃、主民主義を唱え始め、木下尚江、小山東助、大山郁夫、永井柳太郎と会合し社会主義を論じあう。(さくらい・じろう 国会議員秘書・東京都在住)
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3,こんな活用方法 あります!
学校教育で吉野作造をどう生かすかは現在の所模索段階です。 熱心な先生が自発的に授業で吉野作造を取り上げ、大きな成果をあげました。
◎仙台市立南小泉小学校
6年 担任 菅原弘一先生 社会科「立ち上がる民衆」
八時間かけて、生徒たち自らが調べ、考え、まとめ発表させることを通じて大正デモクラシーの時代への理解と共感を養う授業を展開。まず身近な問題として米騒動を中心テーマとして、「米騒動が起きる前と後では人々のくらしはどのように変わっていったのだろうか」という大きな問いかけをしました。そして生徒達がグループで問題をつくり、調べ、中間報告会をはさんで最終発表をおこない、最後に当時の人々へ手紙を書くという授業をされました。 手紙の内容は、「ぼくは二〇才になったらまっさきに選挙へ行きたいと思います。」というような、選挙や民主主義の大切さを知り、将来への思いをつづった頼もしい手紙が目立ちました。
◎岩出山町真山小学校
6年 佐々木朋男先生
 佐々木先生は、社会科、道徳、図工の3つの分野を総合的に学習するという画期的な試みのなかで、吉野作造を教材として扱っています。
道徳では先生が吉野作造の生涯を読み物教材として6年生用に書き直したものを素材に、「不とう不屈」を中心テーマとして理解したことをプリントに記入させました。社会科でもプリントを中心に、吉野作造の生涯、家族、民本主義について各自で調べて自由に構成して書かせ、図画工作では歴史人物ポスターの作成のなかで、吉野作造を取り上げています。
生徒のなかには休み時間を削って作成するという熱中ぶりだった子もいたようです。
◎古川高校
「倫理」「政治経済」移動教室   氏家、鎌田両先生
「・・・五日は朝のうち内で本を読む、やがて学校に行き明六雑誌やらもしほ草の整理をやる。午後岩出山の人櫻井順蔵氏来訪、弐拾何年振り也、明治十八九年頃の小學生時代の先生也、今は蚕糸業の傍玉造郡史を編纂しつゝありとか。・・・後略」
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大正デモクラシーの旗手民主主義の父吉野作造の、吉野作造記念館が発行している「吉野作造記念館だより」のべっくナンバーをご紹介します。
吉野作造記念館だより第13号
第13号
吉野作造記念館だより第12号
第12号
吉野作造記念館だより第11号
第11号
吉野作造記念館だより第10号
第10号
第9号 第8号
第7号 第6号 第5号 第4号 第3号 第2号
第1号          

*第1号は吉野作造記念館ニュースとして発刊。
 
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吉野作造ゆかりの品や巨大スクリーンで振り返る大正史
民本主義の実現のために奔走した作造の生涯 吉野作造について
大正デモクラシーの旗手として走り続けた吉野作造の足跡
民衆のための政治を求める運動の広まりと時代のうねり デモクラシーって?
民本主義を広めようとした作造が懸命に生きた大正の時代
遠足に観光ツアー、春休み・夏休み・秋休み・冬休みの社会科見学に最適!当館の施設のご紹介ページへ 大正デモクラシーの旗手民主主義の父吉野作造の人物像の紹介ページへ 大正デモクラシーの旗手民主主義の父吉野作造が生きた大正の時代と大正デモクラシーについて
 
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