大正デモクラシーの旗手、吉野作造ゆかりの品の展示。遠足や社会科見学、講演会会場、展示館貸出も受付。-吉野作造記念館 宮城県大崎市古川

吉野作造記念館ホーム > 吉野作造記念館だより > 吉野作造記念館だより 第3号

大正デモクラシーの旗手民主主義の父吉野作造の、吉野作造記念館が発行している「吉野作造記念館だより」のべっくナンバーをご紹介します。
 

吉野作造記念館 第3号 もくじ

1.新聞報道にみる吉野作造
2.吉野作造博士と祖父順蔵(二)
3.吉野作造講座 浪人会との対決とその前後
4.移動研修レポート(古川高校)
 今年は吉野作造が古川に誕生して一二〇年めにあたります。 一八七八(明治十一)年、大柿村の綿屋の長男として誕生した吉野は後年自分の家について戯文に以下のように書きました。「父某は綿あきんどで多少の産を興し、祖父某は駄菓子屋でやり損って家屋敷を失う。其の先溯ること数代、寺の過去帳を操ておのおの厳しき法号を知ることを得れども、もとより何処の馬の骨やら分かったものにあらず。けだし神武天皇以来の土百姓に相違なし」。
吉野屋は古川で近世から続く町人の家柄であったようです。 後年、吉野はよく自分の学問について成金をもじって「成学」だと弟子たちにいっていたそうですが、商人の出自でありながら学者になった自らへの自嘲的な響きが聞こえてきます。
政治学者として身を立てながら激動の時代のなかで、学問に没頭するより世間の人々からの期待を担いジャーナリズムの世界でも活躍し多忙な生活を送った吉野の本意はどこにあったのでしょうか。
一二〇年めを迎えた今年、吉野の功績の顕彰とともに吉野自身が本当に望んでいたことは何か、探っていきたいと思います。
1,新聞報道にみる吉野作造      田澤晴子
 政治学者としてジャーナリズムで活躍した吉野作造は、自らの行為や関わる事件が記事となって新聞を飾ることもしばしばだった。

 吉野が新聞にどのように報道されたかという問題は、同時代の一般的な吉野像を探ることにつながる。新聞によって作られた「吉野作造」とはどのような人間だったのだろうか。
 吉野が新聞に登場した最初の時期は、少なくとも中学時代にさかのぼる。一八九七年(明治三〇)三月九日、奥羽日々新聞」には「学生の亀鑑」という見出しで吉野が中学入学以来特待生であることを「全国中稀に見る処にて実に学生の亀鑑と謂ふべし」と称賛している。第二高等学校から東京帝国大学に入学したときは、古川の有志たちが吉野に辞書とお金を送ったことが記事になっている。古川の誇る秀才として期待を一身に担った「吉野作造」の姿が目に浮かぶ。

 全国紙への登場は一九一六(大正五)年、民本主義を公にして一躍時の人となってからである。同年六月に袁世凱死去の際、関係者としてのコメントが掲載される。一七(大正六)年には「東京朝日新聞」に吉野の人となりを多少揶揄して書いた紹介記事が掲載された。
 これは吉野が「民本主義」で論壇の有名人であることを前提として「人生の春」と称して吉野の人となりを書いている。「一体かれは偉そうな事をいいたがる癖がある、『まあ歌留多では東京中に僕の対手はあるまい』というので試合をやってみると、苦もなくかれは負けてしまう、そしていうには『イヤ、僕もこの頃少し手が落ちたようだよ』。  また、来客があっても会いたくないから書生のふりをして断ったとか冗談が下手くそであるとかいった、通俗的な関心からみた吉野の様子が描写されている。   さらに吉野が論壇で有名になると、政治家になるのでは、という憶測が飛び交うようになる。 「報知新聞」の一九一九年(大正八)八月二八日には吉野の写真入りで「民本博士を議政壇上に」という記事が掲載された。これは憲政会代議士だった親友小山東助の死後後継者として吉野作造の名前が浮上していることを報じたものである。記事をよく見れば、吉野自身は全くその気がないこと、内ケ崎作三郎を推薦していることがわかる。実際、内ケ崎が立候補して小山の後を継ぐこととなる。しかし一見した記事の印象は吉野が代議士になるのでは、という感想を起こさせる。地元の新聞「河北新報」にはこれに先立って「候補に立たぬ」という吉野の意志を伝える記事が三月三日付で掲載されている。

 全国紙に比べて地元紙の方が吉野に忠実で好意的な様子は、吉野の妹が呉服の行商をしているという記事によく表れている。  「東京朝日新聞」一九二一年(大正一〇)一二月三一日では「吉野博士の妹が呉服の行商」という見出しで、母子三人でつつましく生活する様子が紹介されている。一方同日付の「河北新報」では見出しは同じようなものの、内容は婦人社会の経済的な目覚めの一例として「呉服の行商」を紹介している。
前者では高名な政治学者吉野の妹が、母子家庭で行商をして生活費を工面しているという興味本位の構成であるのに対し、後者は女性の社会進出の例として称賛しているのである。

 このようなゴシップ記事が増えていく一方、吉野の政治的立場についての新聞記事は実像から離れていくようになる。「東京日々新聞]一九二〇年(大正九)一一月二四日、中国人や朝鮮人を含む社会主義者の会合に吉野が関係していたことが明るみに出た。記事を読むと、吉野はただ会場の申し込みをしただけだが、見出しに「問題裏面に在る吉野博士」として大々的に報じられている。吉野が危険人物として浮上しつつある様子がわかる。

 また、吉野が中国に渡ることについて文部省が難色を示していたという記事が二二年三月三一日付の「東京朝日新聞」にある。「文部省では日頃から私を睨んでいるのだからそれや是やで今度の北京行も当局側では最初から問題にしていたものと考えられないでもない」という吉野のコメントから、吉野への危険人物視が自他共に認められていることがわかる。

 実際の吉野は大学生の普通選挙運動に反対を唱え、社会主義とは一線を画そうとしていた。しかし新聞報道は危険人物としての吉野を強調し、一般に流布した。

 この延長上にあるのが朝日新聞退社事件であろう。二四年(大正一三)、入ったばかりの朝日新聞社を右翼と当局の圧力によって退社させられたこの事件は、危険人物としての「吉野作造」の圧殺事件であった。

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2,吉野作造博士と祖父順蔵(二)     櫻井滋郎
(前号より続く)
次に、保存してある手紙について簡単に考察する。
(1)明治三十七年一月二十九日、金井延氏より吉野作造及び杉程次郎宛書筒。吉野らが東京大学経済学演習会員を代表して、病に臥していた金井教授に見舞状を出した返礼である。
 「拝啓経済学演習会員一同ヲ代表シテ御叮嚀ナル御見舞状ヲ辱ナシ難有奉謝候陳者小生事年首以来病臥致居リ為メ乍遺憾缺勤ノ上療養専一ニ消光罷在所幸ニシテ頃日全快致シ一両日中ニ帰京致豫定ニ候ヘバ遠カラズシテ御両君ヲ始メ学生諸君ニ拝顔ノ栄ヲ得ベク只管楽ミ居間乍憚御安意被下度奉希候先ツハ右御好意ニ対シ御礼迄」となっている。
金井延(かない・のぶる)慶応元年〜昭和八年(一八六五〜一九三三)静岡県出身にして経済学者。東京帝大法科大学のち経済学部教授及び経済学部長。社会問題に対する国家の役割を重視する。社会政策学会の創立に参画する。
(2)前文に関連した手紙が、古川市内の篤志家より古川市教育委員会に寄贈されたと、吉野記念館の田沢晴子研究員より連絡を受けた。即ち、金井教授より政治科第四回生吉野作藏(注幼時より造の字を使うよう家族が教えた事から作造と署名していた。その後、大正六年正式に造と戸籍名を改めた)宛の書簡。
 「拝啓過日ハ態々御来車披下候処折悪シク病臥致居候為御面会致スヲ得ズ失礼仕候陳者文官高等試験モ明十二ニハ結了致候ヘバ十三日午前委員会有之候為又々休講致候ハバ御序モ有之候ハバ御同級ノ諸君ヘ貴下ヨリ可然御断リヲナシオキ度候就キテハ経済学演習ニ干(関)シ一寸相談致置度義モ有之候ハバ来十四日運動会ノ会場ニテ御面談相願度候尤モ当日同会ニ御出席無之候カ或ハ雨天ニテ延引ト相成候ハバ次回ノ演習ハ来十六日ニ開ラクモノト御承知披下宜御取計披下度奉願候 草々 明治三十六年十一月十一日金井延 吉野君」となっており、金井教授の住所は「下谷区谷中天王寺町卅一」とある。
(3)明冶三十八年五月十二日。奥田義人氏より穂積陳重宛書簡。
「拝啓免角不順之時候ニ候処意々御清適ニ◇ラセラレ奉賀候然者吉野学士過日貴書携帯御尋ネ被下候処柄不在中ニテ不得面会残念仕候来ル日旺日午前九時頃ニテハ在宅致居候又午後三四時頃ハ大抵東京法学院ニ参リ居候ニ付電話ニテ御打合セ之上御尋ネ披下候様申シ同氏ニ申伝へ被下候得者難有存候 敬具義人穂積先生机下」
 この手紙は、独特の草書であり、内容の解読もままならず、発信人の名前も不明であったが、前出の田沢晴子氏が筆跡から当時衆議院議員だった奥田義人氏と判断してくれた。内容は、「吉野学士」が貴重書を持って奥田家を訪ねたが、あいにく留守していた。日程を調整して後日来訪してほしい旨を吉野の師である穂積陳重に依頼したものである。
 
奥田義人(おくだ・よしと)万延元年〜大正六年(一八六〇〜一九一七)烏取藩士鉄蔵の次男。東大法学部明治十七年卒業。二十八年衆議院内閣書記官長。二十九年拓務次官。三十年農商務次官。三十三年法務局長官。三十五年法学博士。三十六年衆議院議員(鳥取県)。四十五年貴族院議員。大正二・三年文部大臣・司法大臣。四年東京市長。同年男爵。
穂積陳重(ほづみ・のぶしげ)安政三年〜大正十三年(一八五六〜一九二六)伊予宇和島生まれ。明治・大正を代表する法学者。明治六年開成学校入学。九年から欧州留学。明治十五年東大教授。二十一年日本最初の法学博士となる。二十六年法典調査会主査として民法起草に参画。三十三年貴族院議員。大正六年枢密顧問官・同議長。八年臨時法政審議会総裁。帝国学士院院長。夫人は渋沢栄一長女宇多で、弟の穂積八束も東大教授として二十余年憲法講座を担当した。現在まで続く学者一族として名高い。吉野博士も生涯恩師として敬愛している。
(4)明治三十八年五月十一日。
奥田氏より別紙の通り申来リ候間口節御面会有之ノ様致度草々頓首陳重 吉野学士君
 穂積陳重氏より吉野作造宛書簡として前述の(3)の書簡を添付して出したものである。(5)発信年不明二月五日。木場貞長氏から国家学会幹事吉野作造宛。作造が国家学会雑誌の編集にたずさわったのは、明治三十七年からであり、三十九年一月二十二日には袁世凱の長男克定の家庭教師として天津に赴いている。従って、この間の明治三十七年・八年の二月であろうと思われる。
「拝啓過日は遠路の乗車被下謝し上候演題之儀追而の報知可申候御約策申上べく候処右ハ左の二題の内◇を御選ひ下さる様致度此段御貴意ヲ得候也木場貞長 記 学術と応用是は欧米漫遊土産の積なれども◇◇ 帰朝後日数も相立候故寧ろ左の問題に致すべきか貴下の御選定に任せ候行政学間題としての教科書問題 以上」
木場貞長(こば・さだたけ)安政六年〜昭和十九年(一八五九〜一九四四)明治大正期の文部官僚。鹿児島出身。東大卒。森有礼文相のもとで、文部参事官として明治十九年の学制改革を助けて以来、教育行政に携わり、高等教育会議、臨時教育会議の委員を歴任。大正二年より十年間行政裁判所第三部長。
(6)発信年不詳十月二十日。吉野作造から瀬戸氏宛書簡。
「秋冷の候愈御清適に被為渡候趣大慶至極に奉存候陳者過般参館仕候節は御老体の御身を以て種々御奔走極めてご丁重なる御取扱を蒙り誠に御禮の詞なく存候ことに出立の際ハ御秘蔵の美画まで御授け下され実に難有事ニ奉存今後は粗末なる床の間にかかげて朝夕尊臺の餘香を拝し可申候尚近々御恵與の美画の下に御令息と共に写真にても撮るの期有之候はば御覧に入れ可申度と私に愚考罷在候 次に岩渕様へも別に御礼申上度処なれども御名前も承知不仕旁ニ甚だ失禮ニは御座候へ共尊臺様より宜敷御傳被下度奉願候時下虫韻細々して漸漉の気人にせまる御保養専一と奉存候頓首十月二十日吉野作造瀬戸尊臺梧右」
この書簡について、宛先が瀬戸尊臺様となっており、子息が吉野博士のもとで種々世話になっている様子、更に美画をいただいた御礼となっていることから、作造の日記の中に出ているのではないかと探してみた。しかし、それに相当する事項は見あたらない。そこで、順藏が手に入れ易い瀬戸という人を考えてみた。すると、すぐ近くに「瀬戸様」と敬意をもって呼ばれている家があり、岩出山町議会が実施された明治二十二年の最初の議員となった瀬戸栄之進という人が居る。吉野日記の大正四年四月八日「明後日瀬戸君の結婚式にまごつかぬ様。」九日「夜、瀬戸君来る。」、十日「瀬戸君、堀川嬢の結婚式は四時より始まる訳なり。式めでたくすむ。」等々と、この前後に名前が出ている。翌大正五年一月四日「堀川宅・・・鶴子さんを置いて京城の話しあり」、一月十六日「矢内君を訪ふ、瀬戸夫婦のことにつき相談に来らせし也」とある。これは、矢内竹三郎氏のことであろう。矢内氏は岩山山出身の教育者であり、当時東京市内小学校長をしており、同郷者として博士と親交を結んでおり、日記にも度々でてくる。
更に、矢内家と瀬戸家は血族関係にあることから、瀬戸家に代わり瀬戸家のことについて相談に行ったものであろう。また、矢内家と櫻井家も血族関係にあり、博士からの手紙も入手し易いと思われる。某日、瀬戸家(大正時代に仙台に移転)のことについて叔母等に質すと、「瀬戸様の息子は朝鮮に渡って医者をしていた。大東亜戦争後、仙台市に引き上げて来たらしい。瀬戸家が仙台に引つ越す際、庫の一つを内(順蔵)が引き受けた。」との証言もあり、前述の大正五年一月四日の京城に行くとの話と一致する。こんな浅はかな類推が一般に通用するかどうかわからないが、私にとってはこれがせい一杯の推定である。
(三)
 吉野博士関達の手紙類についてみると、当時の大学の師弟関係は、細やかな愛情の通ったものが文章の端々に見えてくる。病気見舞に対する返礼にも、学生を一人の紳士として感謝を込めた文章になっている。休講にしても学生諸君へ断ってほしい等。現代の大学での教授と学生との関係からみると、実に血の通った講義をしていたのでは、と思われる。吉野博士が傑出した学生だったからだとは思われない。奥田義人氏、木場貞長氏、金井延氏、それぞれについて吉野博士はいろんなところで人物評的なものを書いている。その中では、特に穂積陳重博士については「反響」(一九二六・五)に穂積老先生の思い出として。
 先生は、学者としてまことに一代の耆宿であった。法学教育者として他に類のない偉大なる効績をのこされた。(略)先生の計に接して私は、惜しいと言うよりも、在りし日の先生の温情がたゞ何となく身に染みて親はしくなるばかりである。
と書き、更に先生に対する新聞記事「その御機嫌を損ずれば博士になれない」というのに反論。後進の前途については、極めて親切な人であったこと。当時、社会主義という言葉を使うだけで大変な時代だったのに、その研究を学生に与えるなど、幅の広い学風を持ち、奥の深い人である、と追憶している。
さくらいじろう 国会議員秘書・東京都在住
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3,吉野作造講座 浪人会との対決とその前後  横山寛勝

(1)はじめに
 今回、特にこのテーマを取り上げた理由は二つあります。一つは、思想・言論・学問研究などに加えられる圧迫や弾圧の恐ろしさと不自由さです。人間の呼く息に音声を添えたものが言葉である以上、己の内と外を結び付ける「表現」は、人間の生命活動そのものである、と言ってもいいでしよう。これが抑えられれば息苦しくなるのは当たり前なのです。また、政治の民主化には、表現の自由の優越性は不可欠です。もう一つは、ジャーナリズムの持っている宿命的性格―なされた表現は多くのバリエーション(変形)を持つが故に、いずれを唯一の事実として認識すべきか―の問題です。

(2)浪人会との立会演説会
一九一八(大正七)年十一月二十三日夜六時より、東京神田南明倶楽部に於て、国家主義団体「浪人会」派の六・七名と吉野作造一人とが対決した立会演説会のことです。吉野によると、この直接的理由は、「大阪朝日」の論調が国体を冒涜し朝憲を紊乱するとして、浪人会が不穏な暴力的言辞で大阪朝日を攻撃し、同社村山社長を襲撃した事件(一九一八年九月二十八日)について、吉野が「中央公論」同年十一月号で「斯くの如き形で言論に一種の圧迫を試みるのは決して喜ぶべき現象ではない。」と非難したことにあるのです。(同年十一月十二日付「日記」)
さて、この演説会の結果、二つの点、「立会演説会」の性格と形式、及び両者間で取り交わされたと一部新聞が伝える「二項目合意」の有無が問題となりました。
前者について吉野は、 一九二六(大正十五)年八月に「立合演説」という小文を書き、1互いに一歩も引けない時、2双方から二・三十名の識者を出し合って、公平な審判を仰ぐ、3そこでいったん方向が決まったら、「我を折って」従うべし、と提案したが、浪人会側から拒否されたと証言しています。
また、二項目合意については、「報知新聞」は「吉野が、大阪朝日新聞村山社長襲撃事件につき浪人会側の弁明を聞き、言論圧迫の意図なきを認めたこと」「両者が君民一致で合意したこと」の二項目を、「東京日日新聞」は後者のみを報じています。しかし、「学生社会運動史」(菊川忠雄著)も 「黎明」(麻生久著)もこの件には一切触れていません。吉野自身も口をつぐんでいます。菊川や麻生は、吉野が指導して設けた新人会の有力メンバーだったのです。そして、二者は異口同音に、吉野側の圧倒的勝利を宣言しています。果たして事実は?疑問は容易には解けません。

(3)「立会演説会」に至る背景
ロシア革命や一次大戦後の社会主義や自由平等、独立平和などの国際的思想動向、及びシベリア出兵決定と、これに端を発して全国に波及した米騒動のもたらした社会的政治的混乱が、逆に国粋主義者達の眠りを覚まさせたということもできます。しかも、吉野は米騒動を、庶民運動の魁として評価しているのです。寺内内閣と大阪朝日とは因縁の弾圧・抵抗の抗争があります。一九一八(大正七)年八月十四日、同内閣水野内相より「米騒動に関する記事の差し止め命令」が発せられると「大阪朝日」は、八月十七日開催の「言論擁護内閣弾劾近畿新聞大会」の決議「寺内内閣の非違を弾劾し引責辞職を期し、言論報道の自由を擁護せんとす」を詳しく報じました。一方、国家主義者による大阪朝日圧迫は、八月二十六日付「寺内内閣弾劾関西記者大会」記事中の「白虹日を貫けり」部分に対する国家主義団体の攻撃がもとで、大阪朝日は「白虹不敬」により発売禁止処分となり、九月二十八日には「白虹記事に憤激」した国家主義団体黒龍会壮士池田弘寿らによって、社長の村山龍平が白昼襲撃されています。 さらに、十月九日には浪人会の主催による「大阪朝日新聞膺懲・国体擁護演説会」が開催され、同会員百五十名も参加しています。
これらの動きの共通しているパターンは、寺内内閣の大阪朝日弾圧。大阪朝日の寺内批判。国家主義者の大阪朝日攻撃(朝日膺懲=国体擁護)といういたちごっこ」の構図を示しています。(ただし、寺内内閣は九月二十一日辞表提出)
注「白虹を貫く」は兵乱がある前兆

(4)大阪朝日の収拾策と吉野
寺内内閣と国家主義団体による執拗なまでの大阪朝日攻撃事件は、結局大阪朝日の社長・編集長ら幹部の総入れ替え(十月)と編集方針の大転換(十一月十五日)という、大阪朝日側の一方的撤退措置によって一応の落着を見、「白虹事件」の罪科被害を最少限度に留めることができました。しかし、大阪朝日側の取った「撤退劇」は、却って国家主義者を勢いづかせ、収拾策の重要な柱であった「新聞編集綱領」(「上下一心」を強調)公表一週間後に、吉野を「浪人会との立会演説会」に走らせているのです。

(五)「立会演説会」の余波
「立会演説会」を評価して、麻生は「浪人会が黎明会を建設させた」と明言したが、ヒタヒタと寄せてくる国家主義の流れに対して、吉野と福田徳三らは「黎明会」を組織して「前衛的防波堤たらしめん」と企て、東大法科学生を中心に、自由思想の研究宣伝を主眼とする「新人会」が、吉野の指導の下に誕生したのです。
 言論弾圧と命がけで戦った吉野の血みどろの努力の上に、今日の学問・表現の自由が築かれているとすると、私達が、この自由を大いに活用することこそ、先人に報いる唯一の道なのです。

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2,移動研修レポート(古川高校)
 古川高校では、一昨年から一年生を対象にした移動教室を当記念館で実施しています。昨年は、十月二十八日から十一月十九日まで政治経済、倫理の担当の先生が一クラス毎に引率し、午後一時半から吉野作造の生涯や企画展の説明を聞き、レポートを作成しました。今回は、その中から優れた一文を紹介します。

時代を創った勇敢な男−吉野作造− 1年今野拓弥
「吉野作造は一つの人間のモデルである。」案内人の横山先生はこうおっしやった。僕は、この言葉を聞いたとき、思わず身震いしたのを覚えている。そうさせるほど吉野作造という人はすごく偉い人なのだ。

 田舎生まれのこの人物は、今では日本の誰でもが知っている偉人である。それは、彼の育ち方にあったと思われる。彼の家は綿屋をしていた。そして副業として新聞や雑誌の仲介屋をしていた。政治や経済その時代の社会情勢を常にいち早く察していたのである。
 ここで、彼と僕を比較してみよう。彼が黙々と勉学に励み、新聞や雑誌を読んで教養を深めていた時、僕は外で野球をし、マンガやテレビを見て笑い転げていた。何を比べても、やはり彼の方が立派だ。しかし、彼と僕を比較しても何の意味もないことに気づいた。なぜなら、生きている時代が違うからだ。どんな人だって厳しい環境に置かれたら、険しい人間になるものだ。僕は、平和で民主主義の確立した日本に生きているのだ。いわば、甘ったれたところで育ったのだ。

 ここで知っておかなければならないのは、その土台を創ったのが、まぎれもなく吉野作造だということだ。
 別に僕はこの平和な日本を悪く言うつもりはない。ただ、平和な日本にどっぷり浸ってしまったおかげで、大切なもの、人の命や心を軽視している日本人がいるということか嘆かわしいのだ。

 現在、日本は静かな動乱の時代を迎えている。不況、戦争の放棄を掲げているにもかかわらず、日本本土での実弾演習、税金の無駄遣い。
 まさに、今日本は狂っている。この状況を吉野作造が見たらきっと嘆き悲しむだろう。彼は勇敢な人だった。当時、浪人会の弾圧に耐え、彼は命懸けで民本主義を唱えていた。それに対して、今の政治を始め、大企業、裁判、うやむやにしてしまう利己的な人間がいる。人間は絶体絶命の窮地に追い込まれたときに、簡単に仲間を裏切ることのできる、ある意味で醜い生物だ。こんな生物の集団では、必ずトラブルが起き見過ごしていると、その集団はおかしくなる。今の日本は、ある意味でその状態にあるといえるだろう。いずれ人間は滅びの道を歩むことになるだろう。僕たち人間はそうならないために、もっとしつかりしなければならない。
 吉野作造はしっかりとした人間だった。彼のような人が現れれば、日本にも明るい未来がえてくる。

 しかし、そのような救世主を待つという考えでなく、自分が救世主になる、という考えでなければならないのである。だら、僕たちはそうなるためにも、今一番しなければならないことを自覚し、使命感と責任感とを胸に秘め、日々邁進すべきなのだ。

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小・中学校移動企画展開催・吉野作造マンガの作成・受贈資料一覧等の記事は省きました。
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第13号
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第11号
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第1号          

*第1号は吉野作造記念館ニュースとして発刊。
 
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