大正デモクラシーの旗手、吉野作造ゆかりの品の展示。遠足や社会科見学、講演会会場、展示館貸出も受付。-吉野作造記念館 宮城県大崎市古川

吉野作造記念館ホーム > 吉野作造記念館だより > 吉野作造記念館だより 第4号

大正デモクラシーの旗手民主主義の父吉野作造の、吉野作造記念館が発行している「吉野作造記念館だより」のべっくナンバーをご紹介します。
 

吉野作造記念館 第4号 もくじ

1.吉野作造を授業で活用しよう
2.吉野作造と古高創立期の人びと
3.吉野作造と建築
  私の出た仙台一高の前身は宮城県尋常中学校です。在学中に初代の校長が大槻文彦で、先輩に吉野作造と真山青果がいるということを何回も教わりました。そんなせいもあっていまでもお二人の仕事が気になっています。吉野作造だったらこの場合どう答えるか、ということを折に触れ考える。そういうふうに気にして生きています。
 吉野作造が一番大事にしていたのは、民主主義、民本主義というのはあくまでも方法であって目的ではないということでした。物事を決めていくその時その時にデモクラシーという方法を使うのが大切である。どんな政体であってもいい、王制であっても貴族制であってもそこに必ずデモクラシーという、物事を決めるための方法が確立されているべきだというのが、吉野の政治思想の根本だと思います。そのためにまず前提として普通選挙が行われていなければならない。その普通選挙でも、個人が、外側からの強制を受けずに自分で考えて投票することが必要です。経済的な理由、夫婦間の理由とか親子間の理由とか恩師が出たから投票しなければとかそういうことは一切やめて自分が本当に考えて、この人だと思った人に投票することがデモクラシーの始まりであると吉野はいっています。つまり自分の問題意識を代議士に反映させて、その代議士たちが国会という場で討論する。そうしてこそそこに民意がはっきり反映していく。この吉野の考えは今も生きています。むしろ大正デモクラシーの時期より今の方がひどい政治になっているかも知れない。ですから今こそ吉野作造が必要なのです。今こそ吉野作造を読むべき秋だと信じます。
 これから吉野作造をみなさんと一緒に勉強して、その成果を一年に一ぺん、記念館で発表していきたいと思います。
 (平成10年12月20日の講演より抄録)
1,吉野作造を授業で活用しよう
 小学校の教科書にも出てくる「吉野作造」。でも実際に吉野作造を習ったという記憶を持つ人は多くないようです。記念館を学区内とする古川第二小学校六年生たちは今年度、吉野作造の学習に記念館を大いに活用しました。その成果をご紹介します。

 98年11月下旬〜12月上旬、記念館に古川第二小学校六年生たちが見学に来ました。事前に教科書で吉野作造の時代を学習し、その後当館から職員が小学校に出向いて2クラスずつにわけて吉野作造の生涯を一時間ほど説明しました。そしてそれをもとに一人一人が課題を持って見学に来たようです。
 なかでも4組では、吉野作造を通して大正時代の様子やその頃の日本国内や古川の様子を知るとともに、さらには、子供たちが自分の考えを表現できるような計画を立てていました。
  まず鎖国をしたために欧米諸国から遅れをとった「日本がどのようにして世界に認められるようになったか」という大テーマのもと、吉野作造という人物に焦点をあて、その業績や生き方を学ぶことで時代の人々の様子や考えを知る、という流れを先生が計画しました。
 そしてテーマごとにグループを作って記念館へ来観。この時吉野作造と友人だった我妻寿三郎氏の娘にあたる我妻正子さんに古川の昔のことなどをお話して頂きました。
 これらの体験をもとにグループで発表資料や原稿を作成しました。先生によれば、最初理解が難しいだろうと考えていた「民本主義」を、「これがわからないとだめだから」と言って生徒たちが自ら進んで取り上げようとしたり、説明のため紙で人形をつくるグループもあり、みな熱心に準備していたということです。政治のことは難しいという大人たちの考えは先入観に過ぎなかったようです。
 授業参観日に教室の内外で発表会を開き、これは大好評だったようです。その後、生徒一人一人が吉野作造にあてて手紙を書きました。そのなかからいくつか紹介しましょう。

「吉野作造さんへ」 渡辺仁也
 ぼくは吉野作造さんはすごい人だと思います。なぜなら小学校のころからすごく頭がいいからです。体育とかはだめでもすごい頭のよさでだれもが入りたがっていた中学校に入るなんてすごいと思いました。特にとくいな科目は国語だそうですね。ぼくは国語の作文が大のにがてです。今ではだれでも中学校に入れます。しかも吉野作造さんは、今より二年間長く通いもっと頭のよさがあがったのでしょう。
しかも高校にも使える頭のよさはとうていできるものではありません。キリスト教にも入りだれもが尊敬する人だと思います。ざんねんながら五十五才でなくなってしまったのですが、だれもが尊敬する人と有名ですね。しかも古川の宝みたいな人が五十五才でなくなってしまったのはざんねんです。ぼくも吉野作造さんをすごく尊敬しています。

「吉野作造さんへ」  佃 結希
 吉野作造さん、私達六年生は今、社会の勉強で、あなたのことを調べています。今までは、「古川出身の有名人」ぐらいにしか吉野さんのことを知りませんでした。ごめんなさい。だけど、この間、吉野作造記念館に見学に行ったりして、吉野さんがどんなことをした人なのか知ることができました。
 吉野さんは、誰でも差別のない、みんなが楽しく暮らせるような日本をつくりたかったんですね。今、日本は吉野さんの望んだように、民主主義の政治が行われていますよ。今の日本があるのは、吉野さんのおかげなんだ、ということを知ることができました。
吉野さんは、どんなことがあってもみんなのことを考える人だったそうですね。吉野さんのことを、もっともっとたくさんの人に知ってもらえたらいいと思います。

「吉野作造さんへ」晴左久 将紀
 作造さんはどうして本ばっかり読んでいたんですか。あまり強くない体だったのはわかるけどぼくだったらいろいろな事をします。テニスだけではなく、野球などいろいろなスポーツをやったほうがいいと思いました。ぼくはこの前吉野作造記念館に行ってきました。そこでぼくは「どうして蔵にまでこもって本を読むんだ」ととてもふしぎに思いました。あと話を聞いて体育以外はなんでもとくいなんだからすごいなあと思いました。最後のほうにあと十五年生きていたらすごいゆうめい人になっていたということを聞きました。

「吉野作造さんへ」 森田 賢
 作造さん、なぜあと十五年生きれなかったのですか。あと十五年いきていれば日本でゆうめいな人になっていたのに。まあしかたないですけど。
 話は変わりますが、ぼくは何年か前に、吉野作造記念館に行ったけど、ぜんぜん作造さんがどんな考えをもっていたとか分かりませんでした。でも記念館に見学に行って、ぼくのテーマの作造がいたころの日本の様子のことがよく分かりました。それから発表会もして作造さんが子供のころのことや、どんな考えをもっていたかなどが分かりました。作造さんってすごい人なんだと思いました。
 作造さんは、自分がもっとゆうめいになればって思っているかと思います。なれればいいですね。

 古川高校では一年生を対象に記念館見学を始めて、今年で三回目になります。今回も記念館の見学後のレポートから二作品を紹介します。

 記念館を訪ねて一年 相 沢 友 博
 私が吉野作造について知っていたのは、その名前と大正デモクラシーに関係した人物程度のものでした。今回の記念館見学は、その人生を深く知ることができたと思っています。彼の学業は入学する学校で常に首席、東京帝国大学でも首席であったことは特筆すべきことと感じました。
 なぜ彼はそれ程にまで勉強を取り組んだのでしょうか。吉野は自分が世の中を変え、社会に真っ正面からぶつかって国民に多くの理解を求めようとしたからではないでしょうか。吉野は教授として学生にもその思想を展開し、多くの支持を得たのです。またそれだけではなく、欧米に渡航し、欧米の生きた政治に触れて、帰国後には、日本の実情を汲んだ上で「民本主義」を主張したのです。
 授業で学ぶ「民主主義」や「社会主義」という言葉は正直いって〃さっぱり〃理解できませんでした。記念館見学で理解の道が開かれた気がします。吉野の生涯を通して行った活動、これが人間の最善の姿なのではないかと思います。日本国民だけではなく全世界の人達の幸福を考えていくことが政治であり、彼自身が人々の心や想いを一番感じた人なのかも知れません。今日の政治で足りないことは、この国民全体の幸福を中心にすることだと気づかされた思いです。
 吉野は五五年間の生涯をかけて大正デモクラシーを担っていったのではないでしょうか。私が触れた吉野作造はほんの一面だけかも知れませんが、キリスト教を含めてその色々な人間関係のなかで育まれていった思想なのかもしれません。
 若くして亡くなった人というのはその短い人生の中で普通の人が一生かかってもできないことをして亡くなるとも聞いたことがあります。私はより深く吉野作造を知りたい、勉強してみたいと思います。

記念館に行って一年 桑 田 久 平
 ぼくは、自分と同じ古川市で生まれた吉野作造という人物について民本主義を主張した、歴史の人物の一人としか思いませんでした。
 しかし、この吉野作造記念館に行って吉野という人物を身近に感じ、また多くの知識を得ることができました。
吉野が民本主義を主張した理由は、日本の政治の在り方が欧米に比べあまりにも後れていることを憂い、天皇制を認めた上で国民が中心となって、自分たちの幸せを目指すための主張でした。この主張をするにあたっての吉野の気持ちはどうだったのだろうか。自分が思うには多分、吉野は小さい頃から好きだった本や芝居などでイメージを豊かにし、教授時代に困った人の相談を聞いたりと多くの人と接したことから他人を思う気持ち、そのためにはどうすべきかを考え、それを一つ一つ解決していった吉野にとっては、すでにこの主張によってこれからの未来が変わることを頭の中でイメージしていたような気がします。
 このことから吉野作造は、自分を犠牲にしてまでも社会のため、人のため、これからの未来のために役立とうと努力したすばらしい人であると感じるのです。
 また、家族、両親、多くの友達との出会いなどは吉野作造の生きていく支えになっているということが、彼の生涯から感じられます。
 古川市が生んだ、吉野作造を身近なものとして学習する機会を得たことは大きな感動です。自分はこれから、どのような道を歩んでいくのかは、これからの自分の努力の成果ですが、吉野作造のように、ほんの少しの小さな事でも社会のため、仲間のため、自分自身の未来のために役に立ってみたいと思いました。
 吉野作造という人物は自分に何かを語りかけているような気がしました。

このページのトップへ戻る
2,吉野作造と古高創立期の人びと    横山寛勝
(前号より続く)
1 はじめに
 一九九七年(平成9)、創立百周年を寿いだ宮城県古川高等学校(以下、旧古中・古高と略す)はその間幾多の学制改革を経ながら「質実剛健」「文武両道」の古高魂を培ってきた。吉野作造(以下作造と略)との関わりでここに登場する創立期の人々はいかなる人生を歩んだのだろうか。
2 鈴木文治と早坂奥郎
 作造との関係で特筆すべき人物は、わが国初の労働組合「友愛会」の創設者、「日本労働総同盟」会長の鈴木文治(一八八五~一九四六)である。
 文治は、岩ケ崎高等小学校を卒業し、開校したばかりの宮城県尋常中学校志田郡立分校に一二〇名の新入生達にまじって入学した。一九〇二年(明治35)三月無事卒業できたのは、わずかに三〇名にすぎなかった。文治の生家は、金成村の造り酒屋。古中時代は羽振りよく、文治は古川在稲葉の四歳年上の同級生佐藤長太郎の家に預けられて古中に通い、土曜日の午後や夏休みには、金成の家から人力車や馬で送り迎えされていた。
 この佐藤家に、旧制二高生となっていた作造の友人の小学校教師がいた。時折作造がこの友人を訪ねて談笑している姿を文治は、傍らで「驚歎の情をもって謹聴」していたのだ。これが機縁となって、作造と文治は、終生親密な交遊を続けることになる。
 文治が旧制山口高校に入学する頃家業は傾き学資の仕送りも困難になると、作造は文治の為に月額八円の奨学金がもらえるように世話した。作造の文治に対する心底からの厚意は、作造の七歳も下の文治が、キリスト者としては三年先輩に当たっているという作造の賛嘆の気持ちからだ。文治は一八九五年(明治28)金成のハリストス正教会において受洗している。
 文治が古中四年の夏休み、栗原基の大学卒業を記念して、作造が企画実施した古川三日町瑞川寺での演説会では、文治が司会役を務めている。
また一九一八年(大正7)末の浪人会と作造との立会演説会で文治は会場内外の連絡係と、聴衆の整理係を行っている。
 文治の著書『労働運動二十年』(一九三一年刊)に序文を寄せた作造は、楽天的素質と毀誉褒貶を超越している点をあげ「今日の鈴木君は依然として、三十年前の文ちゃんに外ならない」と揚言している。
佐藤長太郎は、のちに東京帝国大学工学部土木科を出て九州水力電気株式会社の重役になった。
文治と同級の早坂奥郎(一八七四〜一九一七)は古高の名物先生数学科の早坂崇先生の父である。奥郎は東京帝国大学法学部卒業後裁判官となった。司法官試補を命ぜられて浦和裁判所に赴任する際、作造の許を訪ねているほどの間柄である。シルクハットを愛用し瀬戸物の重ね弁当を愛用する粋な判事であった。
3 二回生 守屋栄夫
 守屋栄夫(一八八四~一九七三)は富永村出身。旧制二高から東京帝国大学独法科を出て、内務省に就職。二五年には文治と共に「第七回国際労働会議」に日本政府代表としてジュネーブへ。二八年の第一回普通選挙から衆議院連続六期当選。のち塩釜市長。
 栄夫は一九〇九年(明治四二)六月、作造の三女光子四歳の誕生日に家を訪ねている。内務官僚として作造の社会事業や朝鮮留学生の援助を側面から支援した。
歌人でもあった栄夫は、作造の「一生に大影響を与へし人」内ケ崎作三郎の胸像除幕式(一九五六年九月)に臨み「胸ぬちに高き理想を秘めしまま逝きかへらぬ君をしぞ思う」等一五首を奉呈した。
4 五回生 吉野信次と亀谷徳兵衛
 作造の一〇歳下の弟信次(一八八八〜一九七一)は、旧制一高、東京帝国大学法科を経て商工官僚となり一九三七年(昭和一二)商工大臣、五五年には運輸大臣に就任した。商工大臣就任祝賀の提灯行列には古川在住の古中生が参加した。現在校長室には、信次揮毫「惇信明義」の扁額が掲げられている。因みに信次の妻君代は、作造の妻たまのの妹である。
 三〇年になる「古高育英会」は、亀谷徳兵衛が母校に寄付した二千万円を基金にして設立した奨学金制度で、生徒会活動の顕著な生徒に支給されている。
 東京帝大法科を出た亀谷の名は、作造の日記に一〇数回登場し、二人でよくテニスに興じている。一九一五年(大正四)五月には作造に子猫をあげている。
5 九回生 佐々木忠衛門 
 東京帝国大学法科を卒業した佐々木(一八九二〜一九五二)は一九一八年(大正7)日赤朝鮮本部副総長に就任。一九二二年(大正一一)四月七日夜には、忠衛門は突然作造を訪れ「朝鮮統治の心得など懇ろに話」した。戦後の初代古高同窓会長。
6 おわりに
 吉野作造と古川高校−あまり関係がないように見えて人間関係のベースでつながっていた。作造の交友関係の幅と信実の故である。
このページのトップへ戻る
3,吉野作造と建築    田澤晴子
 吉野作造と建築との関係は、東京帝国大学の学生キリスト教青年会と大きな関わりをもっている。吉野作造と交流した建築家は二人いる。遠藤新と土浦亀城で、二人とも日本にも関わりの深い世界的建築家フランク・ロイド・ライトの弟子で、東京帝国大学のキリスト教青年会に所属していた。
 吉野は東京帝国大学の学生キリスト教青年会の理事長を一九一七年(大正六)より亡くなるまで務めた。ちょうどこの時期青年会に集った学生たちはキリスト教精神をもとに活発な社会活動を展開し始め、青年会事業として法律相談所、家庭購買組合、賛育会病院などを設立した。吉野は資金のやり繰りから理事長就任まで、陰に陽に事業を支えた。立役者となった藤田逸男、河田茂、星島二郎と同世代で交友関係を結んでいた遠藤新は、キリスト教青年会の会館を始めこれらの事業に関する建築設計を行っている。遠藤はライトの愛弟子で帝国ホテルの主任助手を務め、生涯ライトを師として活動した。
 一九二〇年(大正九)吉野も遠藤に自宅書斎の設計を頼んでいる。吉野の日記によれば一月九日に遠藤を訪れ、さらに二二日帝国ホテル建築事務所に大工の鴨野石五郎とともに遠藤を訪れて「西洋間の設計の講釈」を聞いている。二月一日には食事をおごっているから、依頼することに決定したのだろう。八月二四日に「書斎も段々出来上がりて気持よし」と、書斎の出来上がりに満足を表している。この書斎を吉野は気に入っていた。書斎の各所で撮影した写真三枚を組み合わせて葉書を作成し、知人への通信に使用したり、書斎で肖像写真を撮影しているからである。
 遠藤との関係から土浦亀城も吉野家と関わることとなった。吉野は週一回自宅開放日を設け、その日は学生やお客が自由に吉野宅に訪れることが出来た。この日に遠藤新ら青年会の学生たちも面会に訪れており、遠藤より八歳年下の土浦亀城も建築学科の先輩である遠藤に連れられてやって来た。時期は明らかでないが、一九二一年(大正十)九月には吉野家の長女信と結婚しているからそれ以前であろう。信の回想によれば、伊豆畑毛温泉「学士村」に測量の手伝いに来ていた亀城と意気投合したのが最初とのことだ。吉野が知人たちと構想していた「理想郷」建設にも関わっていたことがわかる。
 結婚した土浦夫妻は二二年一月より翌年四月まで吉野家に同居した。この間伊豆畑毛温泉の吉野別荘から弟で商工官僚の吉野信次の自邸の設計まで、土浦は吉野家の建築に関わった。二二年一〇月に完成した畑毛温泉の別荘について「土浦の熱心なる努力に依り甚だ気持[よく]出来る」と吉野は日記で喜びを記している。この別荘は平屋建てで和室と食堂兼居間からなり、外見はライトの影響を強く受けていた。
  吉野自身が建築と多少なりとも関わったといえるのは作家有島武郎や経済学者森本厚吉らとおこした文化生活研究会においてだろう。研究会は財団法人文化普及会と発展、模範的住宅の実験的試みとしてお茶の水に文化アパートメントを建設した。これは森本が理想とする合理的で経済的かつ文化的な生活を体現するものであった。森本と吉野、そして土浦夫妻もこのアパートに住んだ。
吉野は同年五月、建築学会通常大会で講演を行っている。この時のテーマは「建築と文化生活」。しかし吉野は「石工組合の話」と題して、宗教的秘密結社フリーメーソンの紹介に終始した。結局吉野が建築について考えることはなかった。
このページのトップへ戻る
記念館資料紹介・新発見資料紹介・受贈資料一覧は省きました。
  吉野作造記念館だより第5号へ進む
 
大正デモクラシーの旗手民主主義の父吉野作造の、吉野作造記念館が発行している「吉野作造記念館だより」のべっくナンバーをご紹介します。
吉野作造記念館だより第13号
第13号
吉野作造記念館だより第12号
第12号
吉野作造記念館だより第11号
第11号
吉野作造記念館だより第10号
第10号
第9号 第8号
第7号 第6号 第5号 第4号 第3号 第2号
第1号          

*第1号は吉野作造記念館ニュースとして発刊。
 
遠足に観光ツアー、春休み・夏休み・秋休み・冬休みの社会科見学に最適!大正の歴史を語りつぐ喜雄蝶名展示品をご紹介 吉野作造記念館について
吉野作造ゆかりの品や巨大スクリーンで振り返る大正史
民本主義の実現のために奔走した作造の生涯 吉野作造について
大正デモクラシーの旗手として走り続けた吉野作造の足跡
民衆のための政治を求める運動の広まりと時代のうねり デモクラシーって?
民本主義を広めようとした作造が懸命に生きた大正の時代
遠足に観光ツアー、春休み・夏休み・秋休み・冬休みの社会科見学に最適!当館の施設のご紹介ページへ 大正デモクラシーの旗手民主主義の父吉野作造の人物像の紹介ページへ 大正デモクラシーの旗手民主主義の父吉野作造が生きた大正の時代と大正デモクラシーについて
 
■吉野作造記念館サイトマップ
吉野作造記念館トップページ
当館について
当館の施設情報
ご利用案内
展示室や講座室など
吉野作造記念館 の施設のご案内
公共機関・バス・JR・高速道路の詳細な
当館への交通アクセス

研修室・講座室
当館の一般貸出施設について

インターネット特典!
吉野作造記念館入館割引券のご案内
社会科見学のご相談や疑問質問はこちら
当館へのお問い合わせ
当館ホームページの
プライバシーポリシーに対する考え方
刊行物資料
吉野作造記念館所蔵資料
「読売・吉野作造賞」について
吉野作造や当館に関する情報満載!
吉野作造記念館だより
宮城県・大崎地区のお役立ち情報
お役立ち情報リンクのページ
吉野作造について
大正デモクラシーの旗手・民主主義の父
吉野作造について
吉野作造の交友関係がよく分かる
吉野作造周辺の人々
吉野が広めた大正デモクラシーとは?
吉野作造こぼれ話
  日本民主主義の父・吉野作造
  吉野は古川野球の先駆者だった!?
  おしゃれだった!?作さん
  金銭感覚はなかった?吉野博士
  泣いた子供をあやすのが得意だった吉野
  吉野は大の甘党!?
  だれとでも仲良くなれた吉野!?
  吉野家は人でいっぱい!
  古川小学校の親友たち
  デートは歌舞伎座で?
   └補足:演劇画報「先づ観劇料を」
  気の弱さは天下一品!?
  少年たちよ、有名になれ
吉野作造の思い出を語る一品が勢ぞろい
吉野作造記念館の一品
イベント開催情報
講演会・セミナー・その他イベントの
吉野作造記念館主宰開催情報ページ
  過去の吉野作造記念館主催事業活動
子供向けコンテンツ「はかせのたまご」
当館への春休み・夏休み・秋休み・冬休みの遠足や社会科見学、観光ツアーの電話でのご相談はこちら 0229-23-7100
遠足・観光・見学などお電話でのお問い合わせ
  当館への春休み・夏休み・秋休み・冬休みの遠足や社会科見学、観光ツアーのFAXでのご相談はこちら 0229-23-4979
遠足・観光・見学などFAXでのお問い合わせ