大正デモクラシーの旗手、吉野作造ゆかりの品の展示。遠足や社会科見学、講演会会場、展示館貸出も受付。-吉野作造記念館 宮城県大崎市古川

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大正デモクラシーの旗手民主主義の父吉野作造の、吉野作造記念館が発行している「吉野作造記念館だより」のべっくナンバーをご紹介します。
 

吉野作造記念館 第7号 もくじ

1.古川の近代化遺産をめぐる/2001年10月13日

.4月から記念館を運営/NPO法人古川学人事務局長に聞く
3.細川松三郎頌徳碑古川市有形文化財へ
4.井上ひさしの吉野講座EF再録
5.企画展「戦後史のなかの吉野作造」


 この写真は、吉野作造が1920年前後に東京帝国大学学生たちと撮影したものと考えられる。吉野の頭の上に自筆と思われるサインがある。左隣の佐々弘雄(1897〜1948)は東京帝大政治学科時代、社会思想団体の新人会に属し、20年卒業後、同11月に助手となり、22年7月には渡欧している。
 写真は佐々が大学生か、副手・助手時代の記念写真と考えられる。他の二人はおそらく新人会関係者か、帝大関係者であろう。写真の旧蔵者は佐々と同期卒業の政治学者蝋山政道(1895〜1980)である。佐々は何かの記念に蝋山にこの写真を送ったのだろう。卒業記念、あるいは助手就任の記念であろうか。吉野はこの時期最も多忙で、雑誌からの執筆依頼や講演活動を精力的にこなすかたわら、学生たちへの就職あっせんや学資援助、結婚の世話までこまめに行っていた。
 戦後、吉野を慕う人びとによって吉野博士記念会が結成された。その趣意書には吉野が困難な時代に民主主義思想の普及に力を尽くしたことと並び、その人格を高く評価し後世に伝えるべきものとしている。政治思想や業績は時代の変化や後進の研究によって古く見えることはあっても、その人格的影響は人びとの心にいつまでも新鮮に残るようである。

1.古川の近代化遺産をめぐる/2001年10月13日 
  
解説 市教委 文化財係 山下未来

 近代化遺産とは、幕末から明治・大正・昭和初期にかけて建設された建物や構造物をいいます。一般的に建築系では県庁・駅舎・学校等、土木系では橋・ダム等です。まだ比較的新しい近代化遺産は古くなると壊されることが多いため、現在これらを保護・活用しようという動きが広まっています。1996年度より登録文化財制度が始まり、宮城県内で続々と近代的な建造物が登録されつつあります。古川市ではまだ登録文化財はありませんが、今回のツアーで貴重な近代化遺産を再発見することが出来ました。


@落羽松(市役所)
スギ科の針葉樹で北米東南部・メキシコが原産であるが,日本には明治初期から中期にかけて渡来した。日本名のラクウショウは鳥のような枝が落葉の際,小枝ごとに落ちるさまから名付けられたものである。市役所の落羽松はいつ頃植えられたか記録に残っていないが,樹齢110年と考えられ,県内では最北に位置している。立地条件は悪いものの,樹高22m,幹周2.5mに達し,1ヶ所に2本自生していて大変珍しい。
A古川第一小学校 南北校舎
 現在の南北の木造校舎は,北校舎は昭和4年,南校舎は昭和6年に落成した。昭和2年に小学校改築案が町会で可決されたものの,町と町民側との校舎建築意見が合わず度々町民大会が行われたという。建築資材は青森産の檜材を用い(一部は杉),木造建築時代の学校として最良の建築資材を使用した東北で有数のモダン校舎だった。建築には明治以降,積極的に学校建築に取組んでいた気仙大工が関わっている。
B橋平酒造店(写真)
寛政2年創業(1790)。現存する古川の酒造店としては最も古い。酒造店として酒をつくっていたのは昭和60年まで。酒銘は「玉の緒」、「をだえの橋」。酒造店の建物は総面積は本来約2303平方b。古川の和衛門大工に修行した伊藤寿(ひさし)氏が請け負った。最も古い板倉は西端にあり、酒造関係のワラ細工用品を収納。最も大きいのは大正末に建築された仕込蔵、麹室はレンガ造りで、厚い壁には籾殻がこめられている。なお「もろはく」看板は創業当時のもの。
C細川松三郎頌徳碑
 大正7年2月に古川第一小学校正門前に建てられたもので,高さ4.4m,幅1.5mの粘板岩でできている。碑には,吉野作造が小学校時代(明治24年)に教えを受けた細川松三郎の経歴と古川での偉業が称えられている。吉野が生前に古川で造立した唯一の碑で,古川市有形文化財に指定されている。
D名生水源跡(写真)
 古川の上水道の歴史は全国で2番目に古く,明治16年に起工され,翌17年に完成したものである。古川は古来良質の飲料水に恵まれず,やむなく市街地中央を流れる緒絶川の水を飲料水に供してきた。しかし明治15年にコレラが蔓延し60余名の死者を出したことが因となり,当時の古川村戸長永澤才吉が自費を投じて調査し,水工会組織で工費をねん出して建設した浄水施設が上水道の始まりである。水源は明治17年の創設期には夜烏,明治42年に完遂した大改修時には名生(名生水源)まで延長した。名生水源は明治39年に昔から水が豊富であった名生を,町長佐々木文治が名生新田の篤志家都築又右衛門の案内で発見したものである。この改修工事は上水道事業に対する全国でも初の県補助事業であった。
E井側(水道部)
 水道創設当時に設置された自家用専用井で,市内七日町富士東商店より掘り出されたものである。明治16年に着工した水道工事は,水源地であった夜烏に貯水したものを土管で送水し,22ヶ所の共用井と25ヶ所の自家専用井に給水していた。その中の一つの自家専用井で明治17年4月に完成したものである。住民はこの井戸からつるべ桶や柄杓で汲んで飲料水としていた。
F高架水槽(水道部)
 高架水槽は昭和9年の上古川排水場建設計画の際に竣工され,昭和10年に完成した。当時は大崎耕土のどこからでもその姿を見ることができ,まさに古川のシンボル的存在だった。完成時,タンクは黒色で塗装していたので,その格好から「黒いふかし釜」の異名があったという。その後,一部は改修しているものの,構造体等は当時のままで現在も使用している。
G荒谷の道標
明治22年に仙台芭蕉の辻を起点として,仙台藩内の奥州街道(現国道4号)沿いに一里ごとに石の道標が設置された。道標には仙台から一里毎に里数と町村名が記されている。荒谷字竹ノ内にある道標には「陸前国栗原郡長岡村距仙台元標十二里 明治二十二年四月 設宮城県」と刻まれている。ただし現在の道標の位置は,国道の改修に際し修正が行われたため正確な位置ではない。
H通揚の道標
小野字中蝦沢にある道標には「陸前国栗原郡長岡村 距仙台元標十三里明治二十二年四月設宮城県」と刻まれている。
J永澤才吉像(市民会館)
明治17年,古川に上水道を創設した当時の古川村戸長永澤永吉の功績を称え,平成9年に建立されたものである。
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2,4月から記念館を運営/NPO法人古川学人事務局長に聞く
角田稔氏
NPO法人・古川学人事務局長。滑p田硝子店主。
社団法人古川青年会議所で活躍、
「市民会議・好きです古川・私の広場」設立。
2001年8月より台町TMC代表取締役。
「熱き想いを受け継いで飛躍的に発展させる」記念館に
 4月1日より、吉野作造記念館は運営をNPO法人・古川学人に委託されました。具体的な運営方針はこれから決定することになりますが、事務局長の角田稔氏に抱負を語っていただきました。
Q:NPO法人・古川学人とはどんな団体ですか?
A:吉野作造を顕彰し、研究する団体である吉野先生を記念する会と、古川青年会議所や「市民会議・好きです古川・私の広場」などで市民運動に携わってきたメンバーが合流し、両者の価値観が融合して出来た団体です。
Q:団体の目的はなんでしょうか。
A:吉野作造の「民本主義」をよりよい世界を築く手段として捉え、従来までの吉野作造研究・顕彰という記念館のありようを踏まえた上で、市民運動の情報発信拠点として「民本主義」を実践し、形にする活動を精力的に行っていきたいと考えています。
Q:これからどんな活動・運営をしていきたいですか?
A:行政主導から市民主導のまちづくりへの掛け橋として、市民の利便性に寄与する事業を行います。「市民の勉強部屋」として、吉野に限定しない学習活動の場を市民に提供したり、大学教授の出張講座、フォーラムの開催などを考えています。また学校教育、社会教育との連携、免除規定の拡大、記念館の夜間解放、月曜開館・開館時間の変更も視野に入れて、市民や近所の人々に愛される記念館を目指します。気軽に立ち寄ることのできる親しみのある記念館にします。
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3,細川松三郎頌徳碑 古川市有形文化財へ
 古川第一小学校正門前の細川松三郎頌徳碑が2001年度、古川市の有形文化財に指定されました。この碑は吉野作造、三浦吉兵衛ら小学校時代に細川松三郎に教えを受けた門人らによって設置されたもの。
 細川松三郎(1868〜1916)は栗原郡尾松村出身、宮城県師範学校をでて1891年より古川小学校(現古川第一小学校)の訓導として赴任、99年に校長となり、亡くなるまで古川小学校のために尽くしました。吉野作造にとっては初めての師範学校出の先生だったようです。教えをうけたのはわずか一年ほどに過ぎませんが、東京に行ってからも手紙のやり取りなどで交流があり、16年出版の吉野著書『欧州戦局の現在及将来』に細川に「本書一巻を奉呈して感恩の微意を表す」と書きました。頌徳碑建設には吉野、三浦のほか我妻寿三郎、佐々木忠衛門らが尽力し、碑の完成を祝って東京の吉野宅でささやかな同窓会がひらかれました。

写真は1918年2月頌徳碑建設を祝う式典の様子(市内個人蔵)
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4,井上ひさしの吉野講座EF再録   2001年11月3日(抜粋)
 本日は吉野作造が1914年にお書きになった素晴らしい論文を中心にお話をいたします。全部で30枚ぐらいの短い論文ですが、題名は「国際競争場裡における最後の勝利」という論文です。これは簡単に言いますと、国際競争の場において、武力さえあれば最後の勝利は疑いないという説が当時の国際常識ですね。つまり国際競争に勝つには武力さえあればいいんだという当時の常識に、吉野作造先生が真っ向から緻密に論理を重ねながら、武力ではだめだということを徹底的に説いた非常に勇ましい気合のこもった論文です。つまり個人の間では道徳がありますよね。ひとをだまさない。ちゃんとした取り引きをする。それからひとの足を引っ張らない。引っ張ったやつは必ず報いがある。詐欺なんかしますと国家が法律をもっていて詐欺をした人を罰するというふうに、個人の間では道徳といいますか法律があって、悪い人を裁くんですが、国際関係においては当時国家より偉いものはないわけですから個人の道徳は通用しないというのが、当時のある意味では常識だったんですが、吉野先生は論文で延々と武力によって衰えた例をたくさんあげ、武力で強力になった国というのは必ずその武力を盾にして、非常に乱暴に傍若無人に振舞うので、結局長い目で見ると武力で大きくなった国家はかならずしぼんでしまうということをずっと論証していくんですね。これは見事な論証です。

 この時期、吉野先生は国際連盟に期待をかけるんですね。国家が勝手に傍若無人なことをやっていてはだめだ、国家を束ねる組織をいろんな国家が協力して作らないとだめだということが吉野先生の基本的な立場ですね。「国際競争場裡における最後の勝利」で、最後の勝利は誰が得るかと言うと実は武力ではないんですね。そうではなくてこのときの吉野先生の文脈で言うと、国際連盟という一つの国家を超えた組織を通して、個人の道徳、つまり盗みをしない、人をだまさない、そういうことを貫き通した国家が、最後の勝利を得るというのがこの論文の吉野先生の本意だと思います。

 吉野先生が考えていたことは、全然古びていないどころか、非常に先見性があって逆に言うと80年以上前に言われていることがまだ実現していない。依然として武力が常に勝つんだということを80年間まだ信じている人たちが大勢いるわけです。このわがままに振舞っている国家が今はどこかなというと、アメリカであることは明らかです。このままいくとアメリカの世紀は終わります、完全に。アメリカにぴったり寄り添って使い走りの国家になっているうちに、日本の私たちの生きている場所はかなりずれて危険な所へ行っているんじゃないか。やっぱり日本は国際社会でいい働きをしながら、あの国がいないと何かさびしいという国になっていくことが大事だというのが、吉野先生の考えであるといって間違いでないと思います。でもそこにはいきなり行けないんで、一歩一歩まずそこに近づいていくしかない、と。

 (日本は)よく平和ボケと言われますけど、平和ボケ結構じゃないですか。日本は誰も殺していないし、僕らの周りの親戚で戦争で死んだ人というのがだんだんいなくなってきたんですね。これは誇るべきことなんです。戦後軍事行動で人を殺していない国というのは、そう沢山ないんですよ。大国という国ほど殺しているんですよ。でも経済大国世界第2位のGNP、だんだんあやしくなってますが、その国がまだ軍事行動で一人も殺していないというのは、曲がりなりにも憲法前文と第9条をそれなりに守り通してきたおかげなんです。折り合いをつけないとこの小さな地球では誰も生きていけません。国際連合という折り合いをつける機関で、自分をなくさないように折り合って、生きていくしか方法はないんです。「俺の考え正しいから世界中がこうなってしまえ」というアメリカの考えは間違いです。もうちょっと私達は本気で、アメリカの下で生きていくのが幸せなのか、日本独自の生き方をしながらアメリカとも、ロシアともアラビアともアフガニスタンともきっちりやって、いいことはいいと言いだめなことはだめと言い、(アフガニスタンで医療活動をしている)中村哲先生のように人の苦労を助けてあげ、こっちが困ったときに助月3日けてもらうというやり方をとるのか、考えるべきだと思います。

 吉野先生によれば、これからは個人の道徳が通用する世界にしないとだめだということです。国家の関係は個人の道徳とは違うんだという考え方ではもう地球は狭すぎるのです。 

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5.企画展「戦後史のなかの吉野作造」
「戦後史のなかの吉野作造―吉野に影響を受けたひとびと」

 大正デモクラシーを駆け抜けた吉野作造(1878〜1933)。吉野の没後、1950年門人たちを中心に吉野博士記念会が発足した。この会に集った人々は総勢166名、吉野の同世代も含むが、多くは青年時代に大正デモクラシーを迎え、吉野の思想や行動に何らかの影響を受けて人生の針路を決定した。生前に多彩な活動をした吉野は、学問の世界だけでなく、政治・社会に様々な種をまいた。特に東京帝国大学学生基督教青年会(以下東大YMCAと略す)、新人会からは戦後社会の立役者を輩出している。メンバーはおよそ、宮城県出身者、第二高等学校、同忠愛之友倶楽部、弓町本郷キリスト教会、東京大学、東京大学学生キリスト教青年会、新人会、賛育会、社会民衆党、明治文化研究会に含まれる。企画展では、様々な形で戦後に活躍した記念会のメンバーを取り上げ、彼らが吉野から受け取ったものは何であったか、記念会例会記録および吉野作造日記を中心に紹介した。

 その影響はおおよそ三つに分けられる。ひとつめは、吉野の大学での講義や講演内容に影響をうけた人びとである。戦前・戦後一貫して日中の掛け橋として活躍した伊藤武雄(1895〜1984)は大学2年の際、吉野の中国革命論の講義により、「最初の科学的中国認識」を得た。学生時代は吉野の講義を聴くためだけに大学に通ったという伊藤は、その後満鉄に入社、科学的な中国調査を遂行して行く。戦前は国際連盟・戦後国際連合で活躍した原田健(1892〜1973)も『中央公論』掲載の吉野の朝鮮論に感化され、卒業当初は朝鮮半島で働きたいと考えた。政治学者の今中次麿(1893〜1980)も1916年10月1日の日記に吉野の中国論を聞き、中国と日本の現状の類似性、国際関係は正義人道に基づくべきだとの内容に感銘を受けている。
 政治学者?山政道(1895〜1980)は「自由」という概念で近代政治史の問題を国家を横断して解き明かした吉野の政治史講義により政治史に大きな関心をもったと述懐している。その一方、体系的な論理の構築を必要とする政治学の講義は失敗だったと語っている。最高裁判事で憲法学者の河村又介は、『中央公論』に掲載された民本主義論に憧れて法科への進学を決意した。

二つめに吉野の社会運動実践からの影響があげられる。1918年11月27日吉野作造と右翼団体浪人会との立会演説会が開催された。当日は吉野の身辺を守るため多数の学生が参加、会は吉野側の勝利に終わった。翌月、吉野を中心に東大法科生らが結成した普通選挙研究会のメンバー等により社会運動団体新人会が結成された。当初吉野や民本主義を守るための団体であった新人会には、数多くの記念会メンバーが名を連ねている。

また吉野が理事長時代、東大YMCAは学生たちによる様々な社会事業の実践の場となった。藤田逸男(1886〜1956)を中心とする母子保護事業の賛育会病院、消費組合の家庭購買組合運動が展開された。藤田によれば賛育会は吉野の人道論を、家庭購買組合は吉野のデモクラシー論の社会経済面での実践活動であった。組合は戦前の消費組合運動のモデルだと評価され、賛育会は現在も墨田区で事業を拡大し活動している。戦後首相となった片山哲(1887〜1978)と衆議院議長星島二郎(1887〜1980)らの貧困者のための法律相談所事業も行われた。経済学者大内兵衛(1888〜1980)は、東大の食堂で吉野の周囲は常に談論風発、活気の中心であった様子を回想している。

三つめに、吉野から受けた人格的影響があげられる。主に日本電気で実業人として活躍した石川清(1881〜1984)は東大YMCA時代に吉野の信頼を得て吉野家の用心棒をまかされたが、就職のあっせんから見合いの世話まで際限なく、親切の限りを尽くす吉野について回想している。吉野の世話で結婚したのは、外科医の大槻菊男(1887〜1977)、大審院検事の山井浩(1891〜?)、政治学者神川彦松(1889〜1988)ら多数。新聞記者の新居格(1888〜1951)は、新聞記者時代何度も吉野に「首をつないでもらった」。住谷悦治は、バイブルの「右手のしたことを左手に知らせるな」という言葉を吉野は実践していた、とその親切さをキリスト教精神に見出している。英文学研究者斉藤勇(1887〜1982)は、東大YMCAで吉野を尊敬した一人だが、吉野を尊敬すればこそキリスト教を信じる、というYMCA会員が多かったと述懐、吉野の人格的影響の大きさを指摘している。(文責・田澤晴子)

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大正デモクラシーの旗手民主主義の父吉野作造の、吉野作造記念館が発行している「吉野作造記念館だより」のべっくナンバーをご紹介します。
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第13号
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第11号
吉野作造記念館だより第10号
第10号
第9号 第8号
第7号 第6号 第5号 第4号 第3号 第2号
第1号          

*第1号は吉野作造記念館ニュースとして発刊。
 
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