大正デモクラシーの旗手、吉野作造ゆかりの品の展示。遠足や社会科見学、講演会会場、展示館貸出も受付。-吉野作造記念館 宮城県大崎市古川

吉野作造記念館ホーム > 吉野作造記念館だより > 吉野作造記念館だより 第13号

大正デモクラシーの旗手民主主義の父吉野作造の、吉野作造記念館が発行している「吉野作造記念館だより」のべっくナンバーをご紹介します。
 

〜10周年を迎えて〜

吉野作造記念館だより 第13号 もくじ
1.新収蔵史料紹介
2.「吉野作造研究とわたし」
3.吉野作造記念館を訪ねて
4.吉野作造講座
 
5.高校生感想文紹介
6.これからの記念館情報
7.寄贈資料一覧
 

1.新収蔵史料紹介 館長 田中昌亮

当館では今年も多くの方々のご厚意により、大変貴重な史料をご寄贈いただいている。その中より、加藤シゲ子氏と太田雅夫氏より寄贈された史料の一部を紹介する。
加藤シゲ子氏寄贈史料
東京都の加藤シゲ子氏より、「家を片付けていたら、赤松克麿関係資料がたくさん見付かったので寄贈したい」旨のご連絡をいただいた。十三年前、当館準備室時代にもたくさんの史料をいただき大変お世話になった。
史料は、赤松克麿が携わった雑誌や、吉野の次女で赤松と結婚した明の小学校卒業証書などの他に、吉野宛のハガキもいただいた。そのハガキを紹介する。

「吉野作造あて亀谷徳兵衛ハガキ」
「只今駿河国清水港に到着。富士山の霊峰を眺め風景絶佳」と書いてあり、亀谷が旅先から吉野に宛てたハガキであると思われる。発信年月日は不明である。亀谷は一九〇六年、旧制古川中学校(現古川高校)を卒業した。吉野の弟、信次や古川市長を務めた三浦篤と同級生である。旧制第二高等学校、東京帝国大学法科へ進み、長く経済界で活躍した。一九六七年、八九歳の時、育英資金として一五〇〇万円を母校古川高校に寄附した。この育英資金制度は現在も続いており、多数の生徒が恩恵を受けている。吉野と亀谷は、同郷出身ということなどから交流があり、よく二人でテニスをして楽しんだ。また、吉野の『日記』一九一五年五月二十五日付には、「夜亀谷君が来て、子猫を持ってきてくれる」という記述もある。

太田雅夫氏寄贈史料
今年、七月二三日、二四日の二日間、仙台で同志社創立一三〇周年を記念する講演会が開催された。講師は両日とも太田雅夫氏であった。二四日、無理にお願いして、仙台での講演終了後、当館において「吉野作造とわたし」という演題で講演していただいた。大変熱気のある素晴らしいお話であった。その講演の最後に、太田氏から次の史料をいただいた。

「川原次吉郎、住谷悦治執筆『吉野作造略歴』原稿」
これは、川原次吉郎が編集、発行した『古川餘影』(一九三三年)に掲載された「吉野作造博士略歴」の原稿である。太田氏が「吉野作造年譜」作成時、師である住谷悦治より貰い受けた原稿である。川原次吉郎は中央大学教授、住谷悦治は同志社大学総長で共に吉野の弟子であった。

「吉野作造戸籍謄本(青焼)」
太田氏が、一九七〇年当時、朝日新聞社古川通信局に勤務していた知人を通し取寄せた吉野の戸籍謄本である。
太田氏とは当館準備室時代より今日にいたるまで大変お世話になっており、特に吉野の詳細な著作目録や年譜作成時には多くのご指導をいただいた。七月二四日に行われた講演会の要約については、次頁をご覧いただきたい。

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2,「吉野作造研究とわたし」 太田雅夫氏

七月二四日吉野作造記念館にて、太田雅夫氏による講演会が開催された。その要約を掲載する。

 今年の八月一五日、敗戦六十年を迎える。私の節目には常に戦争があった。私が生まれた一九三一年には満州事変、そして小学校に入学した一九三七年には日中戦争が起こった。小学校在学時に紀元二千六百年式典を迎え、一九四一年に太平洋戦争。戦争中だったので工業学校へ進学した。一九四五年の八月一五日敗戦の日。一九五0年の朝鮮戦争勃発の年に同志社大学法学部政治学科に入学。六十歳の還暦の時に湾岸戦争と常に戦争を身近に感じてきた。
 大学卒業後、私は同志社大学田畑忍学長の秘書をし、その後同志社大学学生主事補になった。しかし、学生時代は学生運動に熱中していたので、卒業してから勉強がしたくなった私は、仕事を夜間にまわしてもらい、昼間は立命館大学法学部の大学院へ行った。修士論文は「天皇制と国民感情」というテーマで書いた。それから十年経って、同志社大学人文科学研究所の専任研究員になった。

 私は最初、公安条例・国会法・憲法判例研究などの論文を書いたり、日本公法学会で「憲法政治における政党の機能」を報告したりした。天皇制の研究では「福沢諭吉の天皇観」を発表した。日本政治学会では、京都第一区の政治意識の調査をし、その報告をした。こうして同志社大学人文科学研究所の「キリスト教社会問題研究会」に所属してからは、三つのテーマ「初期社会主義の研究」、「大正デモクラシー研究」、「戦時下の研究」に絞り研究をしてきた。
 「大正デモクラシー研究」については、吉野から直接入らず、大山郁夫研究から入った。『大山郁夫著作目録』作成に参加し、私は主に関西地方を担当した。大山研究で文部省の科学研究費を受け、それに基づいて「大山郁夫の民本主義論」を最初に出したのが一九六七年。そして一九六八年には「早稲田政治学派と大山郁夫」というテーマで論文を書いた。それから星島二郎が東大時代発行した『大学評論』を発掘し、研究も始めた。

 私が吉野作造研究に踏み込んだのは、雑誌『国民講壇』を見つけてからである。最初に吉野に関する文章を書いたのは『中央公論』で、「吉野作造と『国民講壇』」という随筆を書いた。私が吉野作造研究に進んだ最大の動機は、恩師の住谷悦治先生の存在があったからである。住谷先生から「吉野研究はお前に任すから」と言われ、自分の持っている資料を渡された。当時、同志社の総長になっておられた住谷先生の激励と援助のお陰で、私は吉野作造研究に足を踏み込んでいった。住谷先生は学生時代新人会で活動し、その後吉野の推薦で海老名弾正が総長をしていた同志社大学の先生になった方である。

 私は「吉野作造と大学普及運動」と「吉野作造年譜」の調査と執筆に取り掛かり、一九七0年に『キリスト教社会問題研究』に発表した。「吉野作造年譜」はこれまでのものの中で、一番詳細なものだと評価された。

「吉野作造年譜」作成時、私は住谷先生から『古川餘影』(一九三三年)に掲載されている「吉野作造博士略歴」の川原次吉郎先生直筆の原稿と、住谷先生が住谷用箋に執筆された「吉野作造」の住谷先生直筆の原稿をいただいた。本日この機会に、これらの資料を住谷先生と私の両名の名において吉野作造記念館に寄贈したいと思う。また、当時私が古川市役所から入手した、吉野作造の戸籍謄本も寄贈する。

 地元古川市の人たちからの援助のお陰で、私は今日まで吉野作造研究を進めることができた。私がシカゴ大学に在外研修期間中、吉野作造記念館の建設準備委員会が独自に著作目録を作っていた。お互いに情報交換をしながら、一九九四年に出来上がった『吉野作造 論文随筆目録・著書目録・研究文献目録』は、資料の所蔵先や原本か複写かも記され便利なものとなった。

 私は研究者仲間から「実証主義者」だと言われている。恩師の岡本清一先生は人物を描く時は、その人物を観察する必要があると言っていた。その人物が書き残したものを鵜呑みにしてはならない。実証的に検証していくのだということを言われた。伝記・評伝だけをそのまま鵜呑みにしたのでは、結果的に間違いになる可能性がある。実証的に検証していくのだということを言われた。伝記・評伝だけをそのまま鵜呑みにしたのでは、結果的に間違いになる可能性がある。実証的に検証していかないと、学問をするものにとって致命的な痛手を負うことになる。そこで吉野作造資料検索の結果として私が見つけたものを列記する。

●吉野作造の実証的研究

(一) 幻の民本主義論文の掲載誌『国民講壇』の発掘
(二) 『新人』記者受諾の海老名弾正宛吉野書簡の発見
(三) 吉野の本郷教会への転会日の確認
(四) 吉野の英文論文三篇の発見と翻訳
(五) ハワイで『約翰伝』聖句の吉野の書発見
(六) 『試験成功法』の原本が『人民』紙に連載を発掘
(七) 昭文堂の宮城伊兵衛の確定
(八) 『上毛教界月報』掲載の吉野書簡四通発見
(九) 吉野の最後の門下生は憲法学者鈴木安蔵

吉野作造の最後の門下生は鈴木安蔵であるといえる。吉野は賛育会病院から昭和八年二月一九日付の葉書を鈴木宛に出している。私はこれ以後の吉野書簡をみたことがない。今のところ吉野の絶筆の書簡ではないかと思われる。鈴木は吉野の追憶記を聖書の言葉で結んでいる。それはマタイ伝第一一章二九節「われは柔和にしてこころひくし」とマタイ伝第二十章第二八節「人の子のきたれるも、つかえられるためにあらず、かえってつかうることをなすがためである」である。唯物論者の鈴木安蔵が、吉野の人柄を聖句で表現して追想しているのが印象的である。

太田雅夫氏略歴-----------------------------------------------------------------------
1931年京都府生まれ。同志社大学法学部政治学科卒業。立命館大学大学院法学研究科修士課程修了。
元桃山学院大学教授。元桃山学院大学研究所所長。


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3.吉野作造記念館を訪ねて 元古川高校教員  後藤一蔵

 吉野作造記念館のすぐ目の前を東北新幹線が走っています。
吉野が東京に向かった明治のなかごろ、古川から東京に行くまでに要した時間は今日の比ではありません。吉野を東京に駆り立てたのはなんだったのか、私には興味があります。時代の如何を問わず、多くの人はたとえ心に思い描いたとしても、具体的行動に移すことなく、自らの心の中で妥協点を見出し自らを納得させ、形としては表われないことが多いのではないでしょうか。 
吉野作造について何も知らない私が、あえて的外れを覚悟して言うならば、吉野が古川という地に生まれたことに人生の最初のシナリオの鍵があったように思われます。 
吉野が古川の地を離れたのは、新しい古川町が誕生したばかりの時でした。行政的には江戸時代から長い間続いてきた「むら」という枠組みが外れ、明治政府の命令で、まさに「ごった煮」とよばれる状態になりました。そこには、当然のことながら、地域のまとまりは少しも感じられませんでした。一日も早く古川町にふさわしい新しい生活の枠組みが求められました。そのためには、それを理論的に支える考え方がどうしても必要だったのです。人一倍感受性の豊かであったと言われる吉野にとって、そのような状況は幼心を揺さぶったと考えるのはいかがなものでしょうか。吉野はそのような思いを抱きつつ、尋常中学校(現仙台一高)、旧制二高の生活を通じて、自分の問題意識を深め、厳しい社会状況の当時、東京に向かったのではないでしょうか。明治20年代の日本各地において、古川町が置かれていた問題は同じように起こっていました。吉野の問題意識は古川から日本、そして世界をも一定の視座におさめるようになっていったように思います。
年少の頃の体験や見聞が人生を左右するということを、あらためて考えさせられます。
 今年の3月、古川高校第一学年の生徒を対象に実施している吉野作造記念館を訪ねたときに、頭をよぎったのはまさにそのことでした。
 記念館に対する、生徒の感じ方が異なることは言うまでもありません。「終了の時刻だけを心待ちにする生徒」もいれば、「吉野という人物に触れて、多少の興奮を覚える生徒」もいたかもしれません。しかしながら、そこに参加したすべての生徒は一定の時間、その思いの違いはあっても、吉野という人物と向かい合っていたという点では共通性を持っています。古川高校一年生の二時間という時間だけに限って言えば、吉野という人物の影響力にそれなりの差が生まれたといってもいいでしょう。しかし、これからの人生において、その違いが固定化されたままの状態で推移するかというと、どうもそうはならないように思います。見学の際に、ほとんど意識しなかった吉野作造が、生徒個々のこれからの人生にどのような影響を与えるのかということは、なかなか予見できるものではありません。
 高校生にとって、吉野作造記念館に足を運んだことに意味があり、きわめて短時間の過ごし方を云々することは避け、遠くから見守っていこうと考える今日この頃です。

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4,吉野作造講座  二〇〇五年五月十四日〜九月十日
吉野と交流した人物や、時代背景から吉野作造を学ぶ「吉野作造講座」が全八回にわたり行われた。今年は、「戦後六十年(昭和八十年)明治・大正という過去を想い戦後を考える」というテーマのもと当館館長田中昌亮、吉野先生を記念する会会長高橋よし子氏、宮城教育大学非常勤講師後藤一蔵氏が講師を務めた。講座内容の一部を紹介する。

第二回第一部(五月二十八日)
「『嘆きの天使』山口昌男吉野作造と花園歌子」講師 田中昌亮

 山口昌男『大正日本「嘆きの天使」吉野作造と花園歌子』(『へるめす』第43号、一九九三年、岩波書店)を資料に芸者花園歌子と吉野作造の交流について紹介した。明治文化研究会の一員として活躍していた吉野は古書蒐集を通じて様々な人と出会った。花園歌子もその一人だった。
歌子は、一九〇五年一月、東京に生まれた。花園歌子は芸名で本名は黒瀬直といった。貧しい家庭に育ち小学校を卒業すると女子薬学専門学校へと進学するものの、間もなく製薬会社の女子事務員となった。その頃、社会主義者黒瀬春吉(生没年不明)と出会い、主催する浅草オペラ模倣の劇団に入団する。そこで歌子は当時まだ珍しいモダン・ダンスを徹底して学び、新しい芸妓踊りの先駆者となった。
歌子は吉野を先生と慕い、度々研究室にも訪れた。歌子は著書『芸妓通』(一九三〇年、四六書院)の中で、吉野への憧れと尊敬の念を述べている。吉野もまた同書の一部「花柳文化研究資料」の前書きに文章をよせ、同好の士として、歌子の研究発展を大いに期待した。
歌子は後に花園環枝と改名、日本舞踊花園流初代家元として活躍し七十六歳でその生涯を閉じた。

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第六回第二部(八月二十日)
「『経済学辞典』(一九六五年、岩波書店)で読む吉野作造と経済学者群像」
   講師 田中昌亮

 吉野と交流した経済学者の中から三人を採り上げ紹介した。
 まず一人目は、福田徳三である。福田は一八八七年、東京に生まれ、東京高等商業学校(現一橋大)卒業後、ドイツに留学、経済学を学んだ。マルクス経済学の紹介者、批判者として有名である。
一九一八年、吉野が臨んだ右翼団体浪人会との立会演説はデモクラシーの機運を一気に盛り上げた。これを契機として吉野と福田を中心に啓蒙団体「黎明会」が結成された。
同会は、大学教授ら知識人の集まりで、講演を通しデモクラシー思想の発展普及につとめた。しかし、社会主義思想の進出とともに活動は衰え一九二〇年解散した。 
 二人目は統計学者、有沢広巳である。有沢は一八九六年高知県に生まれ、東京帝国大学経済学部を卒業した。有沢は大学在学中に吉野の講義「欧州動乱史論」を聴いた。その時の印象を「政治の動きというものにはじめて目を開かれたような気が」すると自身の著書『学問と思想と人間と』(一九五七年、毎日新聞社)で述べている。
 三人目はマルクス経済学者向坂逸郎である。向坂は一八九七年、福岡県に生まれた。有沢と同じく東京帝国大学経済学部に進み、吉野の講義を受講した。向坂は「吉野博士とデモクラシー」(『改造』一九三三年五月号、改造社)において当時の吉野を振り返っている。それによると、吉野の講義は歴史の事実を羅列するだけで、特に経済学部の学生達には物足りないものであったと述懐している。

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5.高校生感想文紹介
二〇〇五年一月二十六日に古川工業高校三年生が来館しました。また、三月二十三日には古川高校一年生が来館しました。その際の感想文を紹介します。

古川工業高校
菅野健太
吉野作造のことを調べて思ったことがある。彼は「努力家」だということだ。その努力が彼をここまで素晴らしい人間にして、民本主義を作り、大正デモクラシーの軌跡をつくったのだと思う。作造の努力は色々な人と出合わせたと思う。そして、彼の人柄が良かったからこそ、たくさんの人と協力し、支持されたのではないかと思う。だから民主主義を目指す人々からは不徹底だと攻撃されても、それは、作造の主張が具体的でわかりやすく、また当時の人々が欲している点を鋭く指摘していたからだと思う。様々な人からの批判や意見の中で、自らを鍛えていたからこそ、行動し支持を得たのだと想う。
作造のこの行動が、現代の私達に必要なことだと思う。政治家は口では色々な政策を言っているがやっていない。それが国民のためになるのかもわからない。考えること、言うことも大切だが、行動するということが一番大切なのではないかと思う。やってみて初めて気付くこと、修正しなければいけないことが見えてくる時は沢山あると思う。だから作造みたいにまず行動するという所は見習う必要があると思った。昔と今を比べて色々なことがわかったので、見学して良かったと思う。
小野寺孝輔
私は、古川に住んでいたが記念館に行ったのは初めてだった。古川に住んでいながら、吉野作造がどういう人なのか見学するまで詳しく知らなかった。まず、館長さんから吉野作造について説明を受け、吉野作造についてのビデオを見た。その後は、渡されたプリントを記念館の資料や展示物を見ながら記入していった。途中いくつか分からない所があったが、その時は館長さんや館員の人に聞いていった。私は、吉野作造について調べていくうちにいくつか疑問に思うことがあった。それはまず、民本主義と民主主義の違いについてだ。簡単にいうと国民が政治の主人公で表すことが憲法違反民主主義であり、国の考え方に基づいて政治が行えるべきだというのが民本主義である。もし、吉野作造が小野塚喜平次の政治学の講義を受けていなかったら、この民本主義は考え出されていなかったかもしれない。
今回の見学で、私は古川にこんな偉大な人がいるなんてとても素晴らしいことだと思った。そして、私が質問したことに記念館の人たちには分かりやすく色々と教えてくれて、とても感謝している。私は吉野作造について学び、民本主義やどういう人なのか分かり、とても良かった。

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古川高校
佐藤大地
私は以前にも吉野作造記念館を訪れたことがある。おそらく小学一年生か二年生のころだったと思う。当然、古川にゆかりがあると言っても吉野作造とは誰で何をした人なのかも知らなかった。民本主義というものは存在も知らなかっただろう。しかし、十数年経って、私はそれを理解する力もつき、政治について考えることもできるようになり、関心も持つようになった。そうして、もう一度、記念館を訪れあのころと同じ話を聞いた。すごい人とは聞いていたが、本当にすごいとここで初めて主観的に思った。民本主義とは今日の日本が求める姿そのままではないか。きっと当時、民本主義の思想を旗上げした時、その素晴らしい考えを持った彼は奇人として扱われただろう。いつの時代でもそうだ。しかし、彼がその考えを貫き通したという点が私にはできない所だ。四十年間もだ。それも直接自分には利益のない、もしかしたら自分の生きているうちに実現しない思想を、愛する国のために、自分を信じ続けたのだ。これは今の自分には全くない。地位を確立し続けることのみに意地を張る政治で何が変わるだろう。何も変わらない。だから、今こそ吉野の精神に近付きたい。それが記念館に行って一番思ったことである。

沼田徳太郎
館内の見学を通して、様々なことを学ぶことができた。まず、吉野作造がキリスト教信者であり社会主義運動にも関わっていた点である。これは全く知らないことであった。当時の日本ではキリスト教徒も社会主義者も少数派であったはずである。特に社会主義は当時、天皇制に逆らうものとして厳しく弾圧された思想である。しかし、ビデオ上映の中で、「作造は社会主義傾向していき・・・」というフレーズがあり、館内には、旧古中卒で日本労働総同盟をおこした鈴木文治宛の書簡が展示されていた。軍国主義へ向かって進んでいた当時の日本においては、非常に勇気が必要なことであったと思う。その行動力には、私たちも見習うべきがあると思った。また、民本主義がどういうものであるかも、大まかに知ることができた。欧米諸国の民主主義は、国の最高指導者が何らかの形で国民によって決定されるが、天皇が存在する日本ではそれが不可能である。そこで吉野は、天皇制は否定せずに、貴族・軍部を政治から遠ざけて国民によって選ばれた議会を政治の中心に置く民本主義を唱えた。これは現在の日本の政治体制とほぼ同じではないか。遠い昔の人のように思われた吉野の思想が、二十一世紀にまで受け継がれているのである。
今回の見学によって、現在の民主主義の原点を知ることができた。この経験を、今後の学習等に生かしていきたいと思う。

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6,これからの記念館情報

読売・吉野作造賞受賞者講演会
講師 阿川尚之氏(慶應義塾大学教授)
演題「未定(11月時点)」

講師略歴----------------------------------------------------
1951年、東京都生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科中退、米国ジョージタウン大スクール・オブ・フォーリン・サーヴィスならびにロースクール卒業。1977年にソニー米国法律事務所を経て1999年から慶応義塾大学総合政策学部教授。2002年から在米国日本大使館公使(広報文化担当)。他に西村総合法律事務所顧問、ヴァージニア大学ロースクール客員教授、ジョージタウン大学ロースクール客員教授、同志社大学法学部招聘講師を歴任。著書に『アメリカン・ロイヤーの誕生』『海の友情:米国海軍と海上自衛隊』 『アメリカが嫌いですか』『アメリカが見つかりましたか』『それでも私は親米を貫く』『大統領を訴えますか』などがある。
毎年恒例となったGWイベントを、3日間開催しました。研修室ではアンパンマンやム−ミン等のアニメ上映を行いました、講座室等では紙コップや粘土などを利用し、みんなで遊べる楽しい玩具を作成しました。また、子供の日にちなんで、折り紙や画用紙を利用し、コイのぼりを作成したり、大きなコイのぼりに自分の「
夢」を書いてもらいました。休憩ラウンジではアイスクリーム、だんご等の販売を行ないました。

●井上ひさしの吉野講座(一二月一七日開催)と「兄おとうと」(来年三月十三日)

当館名誉館長井上ひさし氏による、古川が生んだ吉野作造と弟信次の歌と笑いの評伝劇「兄おとうと」がいよいよ公演されます。公演に先立ち、作者であり当館名誉館長である井上ひさし氏による恒例の「井上ひさしの吉野講座MN」が開催されます。「兄おとうと」について、また憲法九条改正問題についてたっぷり二時間半、語っていただく予定です。「兄おとうと」本公演と合わせてどうぞご参加ください。

日時 十二月十七日(土)午後一時三十分より
場所 吉野作造記念館
研修室(定員二四〇名)
入場料 無料
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●「兄おとうと」(来年3月13日公演)
古川市最後を飾る演劇公演、傑作「兄おとうと」は二〇〇六年三月十三日(月)に市民会館にて開催されます。この作品は二〇〇三年に初演され、演出の鵜山仁が読売演劇賞大賞、ピアノ演奏の朴勝哲が同優秀スタッフ賞を獲得しています。今回公演する作品は、二〇〇三年度作品に大幅に加筆した大増補版です。大正デモクラシーの旗手となった偉大な政治学者吉野作造と、一〇才年下の弟で農商務省に入り大臣を二度務めた凄腕の政治家、吉野信次。兄弟の夫人同士は実の姉妹という点に着目しての歌あり笑いありの評伝劇です。一見硬く重い内容に見える吉野の生涯と思想を軽やかに、楽しく、そして深い追求のもとに紹介する手法は、井上氏ならではのものといえるでしょう。どうぞこの機会にお見逃しなく。
日時 三月十三日(月)
場所 市民会館大ホール
チケット 市民会館・吉野記念館他市内各プレイガイドにて十二月十二日より発売
チケット代 一般三千円(当日三千五百円)高校生以下二千円(当日二千五百円)
全自由席 主催 古川市教育委員会 共催 NPO法人古川学人 

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これまでのイベント紹介(2005年4月〜9月)
●GWイベント
GW期間中ということもあり、親子でイベントに参加し、一緒に作品をつくり上げる様子が伺えました。親子向けを対象としたイベントを通じて、記念館を知ってもらえたのではないでしょうか。

●花火大会特別イベント
古川の花火大会の日にあわせて、特別イベントを今年を開催しました。「七夕にねがいを」では、七夕かざり・短冊の作成を行い、それぞれの願いを笹竹に飾りました。「つくってみよう」では、折り紙やペンでうちわを作成しました。「花火の前に名作鑑賞」では「オズの魔法使い」・「道」を上映しました。「ちょっとひとやすみ」アイス・ソフトクリームの販売を行いました。夜間は中庭壁面にてムーミンを上映しました。また、当館の屋上で花火を見ることができるよう開放しました。古川市として最後の花火大会ということもあり、今回のイベントを満喫していただけたのではないでしょうか。また、7月24日〜8月21日まで写真展、古川の思い出「晴とけ−古川の祭と子供の生活」を開催しました。写真展を通じて、大正・昭和の古川を思い浮かべて懐かしさをかみしめる人々もいました。

●企画展「吉野作造と関東大震災」
一九二三年九月一日、首都東京を襲った関東大震災。それは自然災害を超えて日本の一時代を画する歴史的転換点ともなった。吉野はこの日大学で地震に遭遇し、大きな衝撃を受けるとともに、その直後より東京各地の被害状況を徒歩などで見聞した。
 そして震災下に起こった朝鮮人虐殺事件、甘粕事件にも冷静さを失うことなく、事件の本質を見抜き、政府や国民のあり方に疑問を投げかけた。
 震災はまた、吉野の人生をも大きく変えた。東京帝国大学教授であった吉野は、震災を機に朝日新聞社へ入社する。これは震災の結果横浜の大富豪が痛手を受け、留学生たちへの援助資金を自らの手で稼ぐ必要にせまられたからである。
 しかし吉野と朝日が結びつくことに危機感をもっていた当局により、講演会での発言や新聞記事に掲載した論説で天皇親裁を否定した点が問題とされた。結局吉野の退社を条件に朝日新聞社の発行禁止を免れることが判明、吉野は六月下旬までに退社した。
 それ以後吉野は民間の一研究者として活動する。震災下で大量の書籍が消失したことに危機感を抱いた人々を集めて明治文化研究会を立ち上げて、『明治文化全集』を編さんした。これは戦後を通じて近代史研究の基礎資料とされた。
 また吉野の明治憲法制定史研究を受け継いだ鈴木安蔵は、戦後日本国憲法制定の際、憲法草案を作成した。草案はGHQにより最も自由主義的だと評価され、日本国憲法制定の基礎となった。

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7.二〇〇五年三月〜十月 寄贈資料一覧  順不同・敬称略
多くの方のご厚意を得て貴重な資料をご寄贈いただいております。厚く御礼申し上げます。
〈資  料  名〉
〈寄  贈  者〉
『途上国ニッポンの歩み 江戸から平成までの経済発展』
有斐閣
『宮城県職員録』  他九点 菅原一也
『20世紀初日本外交思想分析』 小山玲子
『金山の歴史散歩 ふるさとの先人たち』 志間泰治
『同志社談叢』第二四号 抜刷  他四点 太田雅夫
『朝鮮民族を読み解く』 他六点 古田博司
『東京大学基督教年会年表附解説』明治元年〜昭和二十七年 東京大学YMCA
石巻文化センター資料集五『布施辰治関係資料収蔵品目録U』 石巻文化センター
『近代日本研究』第二一巻 他二点 慶應義塾福澤研究センター
『柏木義円資料目録』 他一点  同志社大学人文科学研究所
『世界音楽全集』第三巻 他三二点 北村誠太郎
『東北学院資料室』第四号  他一点 仁昌寺正一
『書痴の散歩』 他二点  菅野又雄
『東北大学百年史』五 「部局史第二巻」 東北大学百年史編纂室
『尚志会写真帖 大正五年度』 他二点 佐々木一郎
『憲法で読むアメリカ史 上・下』  他四点 読売新聞東京本社
『九州法学会報 二〇〇三年』抜刷 「吉野作造の国家戦略論―中国国民革命期にいたるまで―」 他一点 藤村一郎
『点字民衆政治講座 婦人解放論』 他三五点 加藤シゲ子
『仙臺文化』創刊号 渡邊慎也
『大学史紀要』第八号「駿河台の樹立」 他一点 明治大学大学史資料センター事務室
『近代国家を構想した思想家たち』 鹿野政直
『仙台市制施行八十八周年記念 日本国憲法施行三十周年記念 目で見る憲法展』
藤井黎
『吉野作造全集資料』 他五一点 今井清一
『円生と志ん生』 井上ひさし
『みやぎ聞き書き村草子』第一集 境数樹
『評伝 平福百穂』  角館町平福記念美術館
『信徒の友』二〇〇五年九月号 他一点 和泉敬子
『おばあさんから孫たちへ ―みやぎの戦争―』 退職女性教員の会宮城白萩の会
『the 座』第五九号 こまつ座
『日本歴史』第六八九号 吉川弘文館
『雲の柱』第十三号〜第十九号 賀川豊彦記念 松沢資料館
『関東大震災時の朝鮮人虐殺 ―その国家責任と民衆責任』 他一点 山田昭次
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